ラプラスの悪魔

 紙パックのコーヒーをチビチビ飲んでいる。
そして時々思い出したように喫煙をした。--キッチンで換気扇を回して発泡酒の空き缶に吸い殻を捨てる。
随分前に、灰皿は捨てていた。禁煙したはずだったのだが、当時の友人らの影響でまたタバコから離れられなくなっていた。
もっとも、彼らとは遠く離れて、LINEのやり取りしかない。
何年も、顔を合わせてもいない。
そしてそれを、特に意識することもなくなっている。


 やるべきことは山積していた。だが、いざ手をつけようとなると、漠然としたその目標を前にして
着手すべき具体的なタスクが切り出され、はっきりとした像を結んでいるとは言えなかった。


 彼は毎日、東品川までの遠い道のりを出社している。
同じ時間で、地元に帰省できるぐらいの果てしない旅路を満員電車に揺られて毎日行き来している。
行き来にかかる時間だけで、映画が2本みられる。
電車を降りれば乗った時とはまるで天候が違う。


 だがその仕事を初めてから、ようやく理解したことがある。
世の中は、人が想像しているよりもずっと複雑なのだった。
ある日、彼は早朝の電車の中でシートに空きを見つけた。その日はのどの調子が悪く、マスクをしていた。
そのまま窓にもたれるように寝ていたら、ふいに膝の上に鞄を置かれた。
意識をもどすと、車両内の鮨詰め状態は意識が途切れる前よりもずっと複雑化していた。
それよりもなぜ膝の上に見知らぬ鞄の感触があるのかと焦点の合わない目をこらすと、鮨詰め鮨の中でサンドイッチ状態になっている白いいでたちの眼鏡をかけた華奢な少女が見えた。
寝ている彼の膝の上に、知ってかしらずか彼女のハンドバッグが着地していて、わずかに空いていた彼の両ひざ間の空間に彼女は片足を割り込ませた状態で、ほとんど失神したような状態で釣り皮にもつかまらずただ人ごみに挟まっていた。
みると、時折体を大きく痙攣させていた。そして、顔は紅潮していた。


 チカンか?


 ......と彼は思ったが、そうじゃないのかもしれなかった。
 だがとにかく彼女は口を小さく開いて頬を紅潮させ、眼鏡の向こう側の目を伏せて、時折大きく体を痙攣させながら、なぜかその大きなハンドバッグを、彼の膝の上に置き、片足を
彼の両ひざの間に割り込ませた状態で立っていた。
なんともややこしい状態であった。
その状況がどういう状況なのか、眠い頭でははっきりと像を結ぶことはできないが、彼はなぜか股間にかすかな痺れのような感覚を感じた。


 その少女は次の駅で、電車を降りて行った。
人間が自らの意志で自らをモノのように詰め込むその混沌の中からスルリと滑り降りていった。
そして彼は再び目を閉じた。


 目を開けたとき、彼は終着駅にいた。
そうそこが、彼の居場所なのだ。
サイコキネティック、チカン技術総合研究所。
そんなような名前の看板が、改札のデジタルサイネージを埋めていた。

 サイコキネティック痴漢技術総合研究所は、なぞの多い組織だ。
国連との影のパイプとも言われた元事務次官補を中心とした、わけのわからぬ活動実態の不明ななぞの会社であり、
株式の大半を握るのは戦後最大の総会屋の二代目とされた未亡人であるという。


 だが彼にはそれはあまり興味のないことだった。
なぜそこで働いているのか、いつからそこで働いていたのか、もうよく分からなくなっている。
彼はそこへ出勤し、奇抜なスケジュールに従って分刻みでレースをしている。
何と戦っているのかわからないゲームにそれは似ている。
月面から襲来した使徒のように、急にタスクは降りてくる。
だから彼も内面化してしまった癖がある。それは、”今忙しい”オーラだ。
スケジュールに余裕があろうがなかろうが、タスクの入口を制御して、面倒ごとを押し付けられないように
話しづらいオーラでバリアを張っておくのだった。
本格的にタスクが回りだすのは、もう新しいタスクが発生しないであろう定時後ということになる。
そして残業することは、たとえワークライフバランスが叫ばれようと、どこかで自分を”仕事した感”に浸らせ必ず酔わせてくれたのだった。


 そこには、元豆腐屋のジョニーと、なぞのヴェールにつつまれたキャサリンZがいた。
どちらもただの仮の名前である。
本当のところは何もわからない。彼が彼自身のことを知らないのと同じように。


 彼はいつものように、仕事しているフリをしながら裏側で艦これの艦むすを強化していると、
急に新人のドナルドが、キョロキョロしながらつかみかかってきた。
ドナルドは目がイッており、誰にも予想ができない常識はずれの男だった。
富士急ハイランドで勝手に芸をやって、通行者から小銭を巻き上げていただけだったが、サイコキネティック痴漢の才能を買われ、ダークなルートでリクルートされたとどこかで聞いた。
ドナルドは言った。
「昨日の夜はビビンバだぞ」


 ドナルドはいつものように何かの端的な結論だけを突き付けて、それについて何も説明せず、急に去った。
何を意図しているのだかわからず最初は悩まされた。ドナルドは左目が左上、右目が右下を見つめたカメレオンのような表情になって「昨日、俺は死にました」と言い置いてトイレのほうへ
歩いて行っただけだった。


 向こうの島では、キャサリンZが、何かを電話口で延々と語っているようだ。
耳をそばだてても、何についての話なのか分からなかった。わかってもわからなくても、どうでもいい。
結論のないどこにもたどり着く予感のない推論が延々と積みあがっていく。


 そんな時だった。
オスマン帝国の遺産の謎を追えというメールが着信した。
彼は、そのメールを開いた。
件名以外は、期日しか内容がない。内容があるように思わせつつ、それは縦に読んでも斜めに読んでも、ナチスの暗号方式で解読したとしても
何も説明していない何かのランダムな詩的な散文のようなことが書いてある。


 さあやるか。
彼の目の前に、また遠い月面基地からの使徒が襲来した。

 外出届の申請を出し、彼はMacを抱えて研究所を出た。
リノリウム張りの床はまるで病院を思わせる。静謐な雰囲気は図書館に似ている。
だが、どこかで厨房のような香りも漂う。


 クレソンとズッキーニが小さく盛られた皿が出る。
男はテーブルの上にアタッシュケースを置いて開ける。
中にはリボルバー拳銃と、隙間なく詰まった札束だ。


 いよいよか、と彼は思う。


 コトは大型タンカーが接岸可能な海上油田施設で起きるだろう。報道管制が敷かれ、真相は世間には届かない。
目くらましのために、芸能人のスキャンダルが報道され
誰も気がつくことがない。
ダイアル式の公衆電話が傍らにあった。
何もかも非現実的なほどアナクロに思えたが、それが彼が立ち向かうべきオスマン帝国の闇の何かを暗示してもいるのだろう。


 ドアが開き、ヘリの準備が整ったことを知った。

 記憶によればその頃、
ハイビスカスはその花をつけていた。
ということは、夏であったのだろう。


 そんな頃の出来事を、彼はふと思い出した。
そのころ彼らはオペラハウスの改修プロジェクトを行っていた。
赤道直下の熱帯雨林が海岸線に接する辺りが切り開かれたのが前世期で、恐らくそのオペラハウスはその頃からそこにあったようだ。


 その設計は、既存の製図をもとにして行われているはずだったし
大前提になっていることは、現状をそのまま維持して外壁を張り替え、そして小さな増築を行うだけだということであった。


 ところが現場に降りてみると不思議なことに改築工事は難航していた。
何が起きていたのかヒアリングを行った結果、何もわからなかった。
誰もかれもがオンスケジュールで順調に工程を終えているはずだったが
なぜか官庁による審査は通らず、工期がスケジュールの中に納まりきらないほどタスクがどこからともなく発生していった。


 誰かがそのとき気づいた。
オペラハウスのそれまでのあり方が、既存の製図とは異なっていたのだ。
そして既存の図面を基にした改修の計画は、
その図面を正にして審査するならば、小さな増築ではすまないほど多くの点で現状と差分があった。
そして現場はその差分を図面に合わせるための作業を、繰り返される審査の中で強いられていた。


 改修工事が最終的に設計通りに竣工したとき、
プロジェクトは大きな赤字を抱え込んだ状態になった。
そして、取り壊しがはじまった。
本当はその全面改修が行われるはずではなかったからだった。
現状に、小さなフロアが増築されるだけのはずだったからだ。なぜ既存の図面が当初の姿と異なっていたのかは分からなかった。
おそらくは、現場での技術的な困難などにより、都度都度判断が行われ、机上での想定とは異なる工事がその時も行われたのかもしれない。
その結果が、完成図書には反映されなかった。
ただそれだけのことだったのかもしれない。

 -- 哲学書を読むイケメンおやじって実在するんだ。


 オーケストラ指揮者を思わせるわし鼻のおじさんがポールドマンの美学イデオロギーを読んでいる。
カバーはない。付箋が一つ挿さっている。


 --そこにあるのか? 彼の為の一文が。


 やや煤けた皮のバッグを肩がけに、白い文字でBONJOURと印された小さな手提げを手首にかけ片手で白く分厚いその書物を丁寧に吟味している。ここは満員電車。右手は吊革だ。
一見してその人の人となりに似合っていてフィットしているという事のエレガンス。それは彼の姿に説得力に似た強い何かを照射している。


 男の名は倉橋総一郎。湘南新宿ラインで浦和と東京を行き来している。
電車を降りるとクリスタルガイザーのキャップを外し、一口だけ口にして改札へ向かう。


 そこは赤煉瓦と呼ばれている。
活火山のように黒煙をたなびかせる無人化された全自動工場の奥に、それはあった。
宇宙服のようなスーツを着て殺菌シャワーのゲートを通過し、白くまぶしい廊下を抜けると非現実的な光景が広がっていた。


 シーンという不思議な音が聞こえてくる。だがそれは静かすぎるが故の、錯覚なのかもしれなかった。
室内であるはずにもかかわらずそこには地平線があり、抜けるような空の向こうに星々を感じられた。
その平原の中に、赤いレンガ造りの巨大な塔がそびえているのだった。
ボヘミアの平原を吹き渡る伸びやかな風に、草叢が波打っている。その波打ち際に、総一郎が静かに降りていく。


 かつて、
 かつてテルミドールはこの場所で何をしていたのか。


 やがて時計の針はバターのように蕩けはじめてしまうだろう。そうなる前に --。


 女はハーニーズのジャケットの裏にVP70の存在を確かめる。三点バースト。セミオート。失敗はない。あるのは迷いだけだった。
思い出の中でも、彼女は総一郎に抱かれていた。それを思い出すたびに、心が何かに吸い取られていくような無力感を覚えた。
静かな風に髪をなびかせながら、総一郎は赤い煉瓦の影に消えていく。


 銃声は響かない。
 チョコチップクッキーとレモネード。甘い自由の感覚だ。

 事は少しまわりくどくなる、と総一郎は言った。
「その財閥は、戦前の日本を仕切るいくつかの財閥のうちの一つだった。
 だが時代は変わった。彼らは今も財界に縄張りを持っていてそれぞれの地域に深い根を張ってはいる。
それでも、彼らのビジネスのスケール感はだいぶ落ち着いてきている。
 -- 笈菱はそんな財閥のひとつだ。かつて子会社だったはずの京蔵製薬が親の財閥をしのぐほど巨大な規模に拡大している」
総一郎は、自分の家系が代々世襲しているその会社について言っているのだ。
彼は笈菱創業家の三男として生まれた。二人の兄は、飛行機事故によって亡くなっていた。


 彼自身は、事業を継ぐ意思を持たないで育ってきた。
 彼の関心は、はっきりとそれとはまったく異なる方向に向かって張り巡らされていた。だから彼はそこから逃げ出すために、
この道を選んだのかもしれなかった。


 メトロノームの打つ規則的なリズムが聞こえる。総一郎は先ほどから沈黙を守っている。
 工藤怜は、ベッドを降り、その脚にストッキングを履いた。黒い光沢のある切り返しのないタイプだった。ただ暖かいから選んだだけのものだった。
総一郎はただその姿を黙ってみている。脚の肉付きによって伸縮し色の濃さの濃淡が出る。
その濃淡は脚の肉感をただひたすらに強調し、立体的に見せつけた。

 工藤怜は、ひとつの考え方を持っていた。
 かつて彼女が新卒の頃、笈菱グループの情報戦略本部に配属された新人は彼女だけであった。
北大で心理学を専攻した彼女は、心理的な専門性を活用したマネジメント能力を期待されたのだろうか?
それはよくわからない。

 
 それとも彼女の持つ何かが、単純に事業部を魅了しただけだったのかもしれない。ミディアムアレンジにまとめた彼女の髪は彼女の輪郭を
内側に向かってさらに小さく描きながら口元に向かってカールしていた。そして情報戦略本部は当時、社長を輩出したばかりの部署だった。
 

 彼女はOLとしてはかなりアグレッシヴなタイプだった。
 言うべきことは言うし、そのほうがいいと思った時には、上司の指示にその場で代案を提案した。そういう社員は、この部署には少なくはなかった。
だが、その彼・または彼女らはただ怠惰から指示に反発しているだけのように思えていたのかもしれない。
 面倒なことは拒否したいのは誰もが同じ気持ちであっただろう。


 だが、彼女自身はあえて面倒な道を選んでいるようにも思えた。
 戦っていたのかもしれない。一体何と?


 --過去の自分と。


 自分がOLになっているだろうとは、かつて彼女は夢にも思わなかった。そういう時期があった。浴槽の中でふいに手首に剃刀を当て病室で目をさました。
周囲は気がつかなかった。そして彼女の存在を世間から隠そうともした。自分はいない、透明な存在だと思っていた。そう思うと、逆に心はどこへでもいけた。
自分自身の心の中に底のないトンネルがあることを知ったのはその時だった。そのトンネルがどこまで通じているのか、彼女は自分の中に繰り返しダイヴした。


 彼女はただ単に、面倒ごとはその場で片づけなければ、問題はやがて雪だるま式に膨れ上がっていくことを一瞬で見抜いただけだったのかもしれない。
そして意見の対立や、人間関係の意地の張り合いに価値を見出さなかった。男たちは、面子や体裁、気持ちを立てるような仕事の仕方を教えようとした。
そしてそれは、”ここは学校とは違う”という言葉によって締めくくられる長い説教なのだった。


 そのことを彼女は振り返る。彼らのお説教とは裏腹に、まるで学校の現実と同じに思えた。ビジネスは感情ではなく文書を残しながらの契約だ。当事者だけでなくその後ろに組織に属する全員の利害が関わっている。
好意や悪意で仕事の仕方を変えることで、チャンスを潰して自分自身の機会損失を自分で招くべきではなかった。
 そのため彼女は、誰からも好意的にみられることになった。少なくともビジネスにおいては彼女は感情をさしはさまずに公平にふるまったからだった。
それはまるで、コンビニのレジ係が客であれば誰に対しても同じ態度をとるのと同じだった。
 意見の対立は、プライドを守るためには生じさせない。余計な摩擦をうまない必要十分なコミュニケーションだけを的確にとることが重要だった。
弱いスポーツチームは、状況とかかわりのない世間話を試合中に交わすことで判断速度を損ねていく。必要最小限のコミュニケーションで状況に集中するのがよりマシなチームだ。
そして最高のチームは、全員が言葉もなく合図だけで阿吽の呼吸で互いの役割を把握し息を合わせて自分の役割を適切にこなすチームなのだった。
 彼女が上司に対して時折反論するのは、自分の意志を曲げないためでも、相手を打ち負かすためでもない。異なる互いの利害をより志の高いレベルで協調させ互いにとって利益になる相乗効果を生む代案を
考えることがもっと大きな成功を生むだろうと考えたからだった。
 対立することで失敗に至るよりも、つつがなくより摩擦の少ないコミュニケーションによってスムーズに成功を重ねていくようプロジェクトを下支えするのが、当時まだ1メンバーに過ぎなかった
彼女が彼女なりに自分で見つけた責任感の果たし方だったのだ。


 一人の男がそんな彼女を狂わせた。
 その男との出会いの必然性を、ラプラスの悪魔だけが知っている。彼女のハンドバッグにはいつもほうじ茶のパッケージが入っていた。

 工藤怜は不思議な人間だったのだろうか?
 そうではない、と倉橋総一郎は思う。


 彼女にはただ一つの考え方、主義があっただけだ。
 少しでも自分の関わったプロジェクトはすべて成功させる必要がある、という主義だ。投げ込まれたプロジェクトがどんなに失敗を宿命づけられた惨状であれ、
それをソフトランディングさせるために時には与えられた役割をすら超えた動きをする。
 当然のことながら、そんな彼女の動向は警戒も生んだ。何をしでかすのかまったく分からないからだ。時には総一郎にすら、それは予想できない。


 そんな工藤怜の部下の中で最も若年であった男がいる。それが裏松ケンタだった。
 岐阜県の山村で育ったバードウォッチングマニアであり、リレハンメルオリンピックの観客席にいたら飛んできた投げやりに刺されそうになった男だ。
通勤時にはガスマスクを着用し、毎日警察官に職務質問を受けることが原因で遅刻が多い。
彼はなんとなく、おそまつ君のカラ松を思わす人間だった。またの名を、ジョニーXLともいう。


 ジョニーXLには奇妙なうわさが絶えなかった。彼は同時に複数の現場で目撃されることが相次いだのだ。
工藤怜が、休憩のためにオフィスビルに内設されたカフェでコーヒーを買って戻ろうとすると、エレベーターからジョニーXLが降りてきてすれ違った。
ジョニーXLは外に出て行ったのだ。怜はそのままエレベーターに乗り、IDカードでオフィスのセキュリティドアを開けようとするとドアが開いて外にいるはずのジョニーXLがオフィスから出てきた。
怜はコーヒーを落として珍しく取り乱した。

 
 ”あのおかしな子......”


 それから怜は、ジョニーXLに絶えず目を光らせるようにした。急に、二人や三人に分裂するかもしれない。そうなる瞬間を見逃したくない。
二人や三人に分裂するなら、その分多くの仕事を配分すれば、プロジェクトも少し楽になるかもしれないわよ......。


 だが、ジョニーXLは昼間は口をぽかんと開けて天井を見上げており、ときおりゆらゆらと揺れたり、あーと言ったりする以外とくに目立った動きはなかった。
一体なにをしているのか?
 しまいには、怜の頭はジョニーXLで一杯になってしまい、取り乱して仕事にならなくなってきてしまった。夜中に飛び起きて汗をぬぐい、
なんだったのだろうと思い返すと夢にまで出てきていた。
 腹立たしいバカだ......。どうしても許せない......。次の人事考課で怒鳴りつけて、辞めさせなければ......。


 そんなある日、急にジョニーXLが天井からするすると降りてきた。
「......あなた一体、何をしているの?」
「天井から降りています」
 怜はしばし思案を巡らせてみたが、思考は実を結ばなかった。
そのとき後ろから、気配を感じた。

 
 ついにジョニーXLが二人に分裂したのだろうかと思った。
 次の瞬間、そらしかけた視線の端が確かに捉えた。ジョニーXLの尻の辺りから卵のようなものがボタボタと掃き出されている。
その殻が勢いよくはじけ、無数の小さなジョニーXLが暴れながら湧き出して風船のように膨張している。
 ジョニーXLはそれぞれまったく別のジョニーXLだった。
「ふっ、今日も生まれたぜ」
「あたいは、マンボ」
「7時5分から!」
「わたくしのハートは燃えているだわさっさ」
 彼らは怜を神輿のように担ぎ上げ、胴上げを始めた。怜は重力から解き放たれもがいても逃れようとしても、手足は虚空をつかむだけで逃れられない。
悔しい怒りがこみ上げて怒鳴った。
「離せ!このブタ野郎!ぶち殺してやる!」
 無数のジョニーXLは怜をそのままポンポン宙に投げながら、ワイワイいいつつ彼女をどこかへさらっていった。


そんな様子を撮影した記録映像を、倉橋はぼんやりながめていた。
ラプラスの悪魔の復活の時期が近いことを知った。

 倉橋総一郎は、完璧主義者だった。その完璧主義的な思想の土台をなしているのはヘーゲル主義であった。
浦安からの通勤電車の中で、彼はいつものようにポールドマンの美学イデオロギーを確かめるように指でなぞりながら読む。
彼はまるで、機械のように精密なリズムの中で暮らしている。
目覚まし時計もなく、まったく同じ時間に目を覚まし、まったく同じルーチンに従って朝の入浴と支度を済ませ、
ラルフ・ローレンに身を包んで風に吸い込まれるように電車に乗るのだった。


 その電車の中である日、彼は閃きを得た。
 その閃きこそがすべての成功の原点だったのかもしれない。


 工藤怜を見出したのだ。工藤怜は、偶然ながらすでに彼と同じ組織に属していた。そんな彼女を、総一郎は取引によって自らの部隊に獲得した。
彼の計画のために、欠けていたピースが嵌ったことになる。
その計画は、ひとつの欠落もゆるさない精緻さが要求される。
 彼が描いた伝説的アローダイアグラムは、世界の裏側で心臓のように鼓動を打っていた。
完璧なパーツがそろって初めてそのダイアグラムは意味をなす。理念上の世界が現実を裏側から侵食していく姿を彼は楽しんだ。
 旧来のパラダイムは静かに光の中で溶けて消える。エピステーメーのパラダイムシフトの引き金を引くタイミングを待った。
ミームをばら撒き、思考に感染させ、社会現象を次々と仕掛けていくのだ。
 それまでの時代、人はそれぞれ孤立した思考をもった単体としての人生を歩んでいた。
来るべき時代には、人は群体としての一つの思考をもった巨大な生命体に生まれ変わる。
それはまるで、OSを持った端末の群れとしてのインターネットから、インターネット全体がひとつのコンピュータとして連動して機能する時代へのシフトも意味する。
 そのとき人類は、それまでの世界がミクロの世界にすぎなかったことに気づくと同時に、マクロの世界が新しいミクロの世界と相似形をなしていることもまた知る。
アルゴリズムは新しい知覚フレームを生み出すだろう。


 彼は電車を降り、クリスタルガイザーを一口だけ口にすると、キャップを閉め、BONJOURと印されたバッグにそれを閉まった。
行きかう人ごみは濁流のように流れる。彼はまるで霊的な存在であるかのように、するりとその場を通り抜けていった。

 ジョニーXLが、つまりカラ松に似た裏松ケンタが、工藤怜を変えた男なのだろうか?
 だが、それは違う。あの日、工藤怜に何があったのかは分からない。本人も記憶を失っていたようだ。
ジョニーXLもまた、口をぽかんと開けて何も答えはしなかった。ジョニーXLには、実際には分厚い心の壁があるようだった。
こちら側からその壁を乗り越えていかなければ、彼は何も話さないだろう。
だが、その試みも挫折に終わっていた。彼は、そのままにしておく以外にどうしようもないのだった。


 世界は、それを知覚するそれぞれの人間の脳内に存在する、と倉橋総一郎は思った。
世界とは、その人間が経験的に知覚し、与えられた世界観の総和なのだ。
当然のことながらその世界観には、それぞれの脳の違いによって指紋のように個体差がある。
ジョニーXLの世界は、まるで謎につつまれていた。
伽藍洞のようでもあり、鉄骨で作られた骨子に支えられているようでもあり、しかし実はそれはのぞき込むものの心をただ鏡のように反射しているだけのようでもあった。
人は誰しも、かつてそういう世界を見ていたということに、何らかの関連性があるかもしれない。
だが、いつの間にか人はそうではない世界を与えられ、学びとり、刺激を体系化するためのフレームワークを通して世界観を形成するようになっていくものなのだ。
そのフレームワークは常識と名付けられたなにがしかであり、時代とともにアップデートされていくエピステーメーであった。


 鏡の中ではなぜ左右が逆転するのかということを初めて考えたとき、総一郎はそれを知った。
メンズシェーバーでひげを剃っていた時、すべてを精密に写し取る鏡の中の世界で、右手が左手になっていることについて考えてしまったのだ。
左右だけが逆転をする。
上下は逆転しないのだった。
なぜなのだろうかと思案あぐねた末に、彼は少しずつそれを理解していったのである。


 -- 逆転しているのは左右ではない。


 そのとき、総一郎は思い出した。
工藤怜がベッドの脇でストッキングを履きなおしていた時のことを思い出したのだ。
そのとき、工藤怜のすらりとした脚線美は平面から凸面へと姿を変えた。
切り返しのないその黒く光沢のあるストッキングは、怜の脚の肉感に応じて伸縮し、色の濃淡で立体感を卑猥なまでに強調していく。
怜の表情は、髪に隠れて見えなかった。しかし口元だけがかすかに小さく笑っていた。
工藤怜は、試しているのだと総一郎は思った。
自分が怜を試しているのだとそれまで彼は思っていた。しかし知らぬ間に彼は挑発に乗り、無意識のうちに怜の奴隷になっていたのだ。


 そのことに気づいたのは、首都高速中央環状線のカーブの横Gを全身で受け止めていた時のことだった。
その時、彼のレクサスは時速120キロに達していた。
タイヤが路面からはがれる、と彼は思った。

 まるでそれは走馬燈に似ていた。
 その時、首都高速中央環状線のカーブで、倉橋総一郎のレクサスは横Gに耐えきれずクラッシュしそうに思われた。
 何もかもがストップモーションのように滑稽な景色に見えた。そしてそれは徐々にスローになっていき、その中で総一郎は様々なことを思考していた。
思考が火花を吹き始め、総一郎の精神は時空を突き破って中世ヨーロッパの宮廷に到達していた。


 彼は貴族に召し抱えられる音楽家となっている自分に気がつき、吟遊詩人としてオペラ座の台本を書く小説家となっている自分に気がつき、
しかしなぜだか時間はさかさまに流れて彼は子供になってまた別の時代の何かになった。


 これでは時間が逆回りだ、と彼は思った。しかしそれと同時に、世界のすべてが自分であることに気がついた。彼の知るすべての世界が、
実は彼自身と同一であることが具体的に形をとりはじめているのを知った。
 世界が変わるのだ。少なくとも彼の世界が変わり始めている。


 だが目を凝らすと、目の前の光景はまるで時間が止まったかのように永遠の波の中でゆらゆらと揺れているだけだ。コンクリートの壁が
斜め前方にそびえ立つその瞬間から一歩も未来は切り開かれていかない。
 突風が吹いて、彼の車が逆方向に転がる可能性がまだあるようにも思えた。
地盤沈下が起きてその壁が消滅する可能性もあるように思えた。急に重力が消滅して彼はむしろ宇宙に向かって跳躍するかもしれない。
コンクリートの壁だと思われたものが実はほんとうは豆腐である予感もぬぐいされない。


 その時突然、ジュラ紀にほろんだはずの彼の祖先が目の前に現れ、彼は気を奪われた。
気がついたとき、彼のレクサスはほとんどスピンしたかのような慣性的なドリフトを開始し、火花を上げながらカーブを切り抜けた。
時間の流れが急速にもとに戻る。
彼は元の世界に覚醒する。


 その時に見た光景を、彼はもう一度追いかける人生がそこから始まったのだった。

 -- ペルシャの教祖ツァラストラは、ついに神は死んだと叫んで再び人間の中に帰り、宗教的厭世主義を否定し群衆を前にして地上を賛美し、
地上を肯定し、"人間は征服するために生まれ、かつ生きる"と説く。


 倉橋総一郎はふとその文言を呟いている自分を知る。
かつて彼は自分の世界の中で神となっている自分を見た。彼はそれをどのように理解すればいいのかしばらく思索にふけっていた。
ヘーゲル主義との出会いは、彼にとってまるで2回目の正面衝突のような新鮮な驚きだった。
(厳密には、彼は1度も正面衝突には至っていない)


 そのドグマ。そしてパラドグマ。パラドックス。元々完璧主義的な血を宿している彼は、
丹念な計画によってその理想を達成する巨大な構想を編み上げていった。
様々な幸運から彼はそのために必要とされるリソースを元々持ち合わせていた。
笈菱グループに奇妙な子会社がいつの間にか立ち上がり、審査を煙にまくような謎の定款に従って活動を開始した。


 大型タンカーが接岸可能な巨大な海上油田施設が、その法人の所在地とされている。
その法人は完全に無国籍の法人として法律の網の目上に存在する。


 防弾チョッキに身を包んだ私兵団による24時間365日の厳戒警備が敷かれた核シェルターを思わせるその合金の要塞は、
360度迎撃ミサイルの槍で覆われ、定期的に往来する武装ヘリ以外の何もその中をうかがい知ることはない。
夜空をささえる柱のようにそびえた無数の煙突からは時折爆発音とともに真っ赤な火柱が噴出した。

 工藤怜が、なぜその組織に関わるようになったのか。


 それは倉橋総一郎のまだ知らないことの一つだった。
彼女の存在は組織の中で何か違和感のようなものを生じ続けている。
それは摩擦を生むことはない。しかしそれは恐らく彼女自身のたゆまぬ計算によって回避されているものなのであって
本来的には彼女は、その組織にいるべき存在ではない、ということを総一郎は見抜いた。
総一郎にとって大概の人間は、その成長の過程でさまざまな挫折を経験し屈折した独特の諦念に身を染めるものであるはずだった。
しかし工藤怜には、それがなかった。
まるで一度たりとも挫折を経験することがなかったかのような、透明色がかった無垢さがそこにはあった。
だがその無垢さは、必ず選択の邪魔になるだろう、と総一郎は読んでいた。
適切なタイミングで取捨選択の決断を取れるかどうかは、時にはある種の思考のいびつさを要求してくるはずだった。
人間性を失った血や涙のながれない冷徹なまなざしを要求してくるはずだった。
ところが、工藤怜はあらかじめそういう人間であるかのようなパフォーマンスを発揮しながら、
しかしどこかでその肉体の中に彼女自身の熱源を隠し持っているように思えた。


 その謎は、総一郎の心を弓矢のように射抜いている。
工藤怜は彼にとってこの世の解き明かされざる未知の謎だった。
謎めくその内側の熱源に惹かれる自分を総一郎は強く恥じた。
工藤怜について考えることを彼は自ら求めると同時に禁じた。


 その時、ジョニーXLが叫んだ。
「学生をどうするつもりだー!」


 窓ガラスが勢いよく破け、特殊部隊が部屋になだれ込んできた。催涙ガスがばら撒かれ
すべてが台無しになる予感があった。

 爆発音のようなジョニーXLの金切り声と同時に窓を突き破ってきた特殊部隊は、公式な部隊ではなかった。
政府から委託された民間軍事会社の部隊のようだった。
 総一郎は咳き込みながらも霞む視線の端に工藤怜の背中を見た。
怜は、なぜか催涙ガスが効かないとでもいうかのように白煙の中で直立したまま彼女を取り囲む自動小銃の群れの中に立っている。
ふと、その姿が見えなくなり、特殊部隊は枝垂桜のように声もなく一人また一人と倒れて散っていく。
銃声はない。目的は怜を連れ帰ることだと総一郎は知る。
しかし、それはどうやらインポッシブルなミッションであるかに思われた。
なぜなのかは分からないが、形勢は怜にとってまったく不利ではないようだ。
催涙ガスの白煙が破られた窓に徐々に吸われるように薄まった時、薄もやの中に立っているのは工藤怜だけだった。
(ジョニーXLは、時折どこにいるのか分からなくなるのだった)


「所長、これは一体、どういう状況でしょうか」
 工藤怜の瞳孔が赤い楕円のように光を映じていることに、総一郎はためらった。
ジョニーXLも、どこかに二、三人いるように思われた。
自分でそろえたつもりのこの部下たちのことを、自分は本当はよく知らない、と総一郎は思った。

 同時性の一つの尺度は、目の前に一様に眺めたときの同時性ということになる。
視覚は物体から反射された光を眼球の受容体が刺激として感受したものをそれぞれの脳が脳内処理した結果成立する。
光の速度が、視覚による同時性の根拠だ。


 航空機は自分自身が発する飛行音をしばしば追い越す速度で移動する。
その時飛行機は地上から見上げて存在するであろう場所よりもはるかに前方に移動している。
音による同時性の根拠である音速を、飛行機はしばしば破る。


 同時であるということの根拠は、人間が感受できるもっとも高速な感覚刺激である光によって成り立つがゆえに
ジョニーXLはしばしば同時に別の場所に存在できるというのが、総一郎の理解だ。
どのようにして彼が光の速度を上回ってしまうのかは長年解明されなかったが、ある日、仮説が立った。
彼は時折光を反射せず、視覚の世界とは関係のない軸を往来することができる体質なのかもしれなかった。
(彼は実際、カメレオンのように周囲の景色に同化していた)
光ではジョニーXLを適切に捉えることができない。彼の細胞が発する何かが、壁のように周囲の空間を捻じ曲げて彼を透明化しているように思われた。


 実際、研究所はその仮説を基にして、ある重要なヒューマンテクノロジーを開発する。
そのために必要な逸材が、なぜだか分からないが常に総一郎の傍らにはあらかじめそろっていた。


「工藤君、ちょっと」
 総一郎は内線電話をかけた。

 その所長室は、半円形の天井をしたリノリウム張りの長い廊下の先にあった。
端から見れば突き当りが点に見えるほどの長い廊下だ。
脇には小さな小窓があり、ウサギが人参をポリポリ齧っていた。


 ドアを開けると、クリーム色の大きな部屋が姿を現す。13席の椅子がならんだ円卓の向こう側のデスクに、総一郎の背中が見えた。
ルナールの詩を口ずさんでいるようだ。
傍らにはフェルメールの壁画が目についた。


「どんなご用件でしょう、所長」
 コツンという音をたてて工藤怜のハイヒールの足跡が止む。ミディアムアレンジにまとめた彼女の髪が口元にかかる。
サイコキネティック痴漢技術総合研究所というロゴをなんとなく気にした。


 倉橋総一郎は言った。
「人体実験のはじまりだ」
 バタンという音がし、続いて電子錠の降りる重い音が背後から聞こえた。

 その時、その部屋は密室となった。
 クリーム色の密室の中には、象牙で形作られた阿修羅像があった。その股間は月を射落すことが目的であるかのごとく堅く垂直にそびえ立つように隆起している。
工藤怜は眉一つ動かさず次の言葉を待つ。
 人体実験?


 倉橋総一郎はデスクの上に掌を組みその上にしゃくれた顎を乗せ、怜を眺めている。
その目はまるで彼女を、モノのように眺める眼差しだ。傍らに飾られたフェルメールの壁画を眺めているのか怜を眺めているのか
そのどちらでもよかった。


 倉橋総一郎にとって怜がそうであるように、怜にとっても倉橋総一郎は謎の存在であった。怜は倉橋のことをひそかに鷲に似た男だと考えていた。
鷲のような鷲鼻の男。すべてをさらけ出すことなく常に何かを秘めている男。その心の中には、複雑に絡み合った網の目のような論理の体系があり、
しかしその正体は怜にはほとんど気配程度にしか明らかにされないのだった。
 総一郎の中にある謎は、怜を何かの香りに気取られた人間のようにさせる。
 戦前の世界史に爪痕を残した笈菱財閥の残り香を薄もやのように漂わせるその男には、明らかに常人にない不思議な雰囲気が漂っている。
そしてそれは、怜を、過去と想像の世界へといざない、ここではないどこかへと彼女を誘おうとしていた。
 現実のしがらみから彼女を救い出し、想像された理想郷へと彼女を連れだしてくれる優雅な何かを密かに彼女に妄想させてもいた。


 植物的に思われた倉橋総一郎の目が、まるで高価な剥製の死んだ目のように怜に向けられている。
怜の心をモノのように突き刺すその目が、逆にモノのように黒い光に死んでいるのを怜は見、そしてその奥に、自分の過去の憧憬へとつながるトンネルがあるのを見た。
彼女の心は、ボヘミアの平原を吹き渡る伸びやかな風にでもさらわれたかのように、懐かしい何かへとさらわれてしまいそうになった。


 それは、かつて女子高校生であった頃の思い出へと彼女の心を引き寄せていった。
汗ばむ肌着の感覚と、急に変化していく自分の肉体を持て余していたあの頃の、自分自身ですら自分をコントロールできないほどの狂おしい感情に振り回された夏を思い出させた。
放課後の校舎のオレンジ色に刺し抜かれた影の中で、彼女は誰かを待っていた。
来るはずの誰かがそこに来ることを彼女は一人で待っていた。
抜け駆けの感覚と、恥ずかしさ、照れくささ、しかしそれをつきやぶる期待感が彼女の胸の鼓動を乱れさせていく。
ぽってりと濡れた彼女の唇が、少しずつ無防備に開かれた。
そこから白く曇った吐息が漏れる。その吐息は怜の口元にかかる横髪をかすかに振るわせる。
解き放たれることを待望していた積年のほてりのようなもの。それが、工藤怜の肉体の中で急激に沸騰しはじめていた。
 タイトミニスカートが、腿に窮屈な何かを感じさせる。工藤怜は何げなくその裾を引っ張って皺を伸ばした。何かが気になってしかたなかった。
自分の内腿の肉がストッキング越しにこすれあう感覚が、いつもとは違う感じを知らせてくるのだった。

 思い出は、工藤怜を絹製のカーテンのようにやさしく包み込む。
 その感覚はいつも、怜を確かな堅い確信へと誘っていく。


 白い闇のうねりが彼女の重力をかき回した。心を吸い上げられ宇宙に四散する感覚を彼女は感じた。
 自分はまだ、自分を知らない、と彼女は思った。


 それまでの彼女は、自分を知っているつもりでいた。だがそれを言葉にしてみたとき、そこに現れるのはいつも在りたい自分の姿であり
何かを受け流すための自分の荷姿であるにすぎなかった。
 本当の自分がどこにあるのか、それを知らないということを感じた。体が、心が突き動かされていった。
衝動は肉体の芯から熱のように放射されていた。
 過去との再会を繰り返すたび、その姿は記録とは異なるものに変容していく。自分自身が変化しつづけている。
人間の細胞はおよそ2年かけてすべて入れ替わり続けている。
 かつての自分の痕跡は体のどこにも残っていない。記憶すらも、例外ではないのだった。
時を経てもうつろい変わらない何かを彼女は自分の中に見出していた。しかしそれは、実際には絶えずうつろいゆくものにすぎなかった。
 その繰り返しが、自分の中にあるはずだった。
しかしそれはそう思えるような何かが自分にあるだけであった。


 彼女は臨死体験を繰り返していた。
 幾度となく、生まれ変わっていた。総一郎のように。
そこでみたものの正体を総一郎は知っていたのだろうか?


 白い闇の海原の海面をイルカの群れが破っていく。丸々と太った巨大魚の群れが、光の綾の中でゆらりゆらりと揺れ動く。
波紋は空間を歪めながら、世界の歯車を狂わせ始めた。
時の鐘が3度目の音色を知らせる。
 ラプラスの悪魔が目覚める時が迫っていた。

 竜樹とはサンスクリットのナーガルジュナの漢訳名である。
大乗仏教中観派の祖として知られるナーガルジュナは、2世紀ごろに空(くう)の理論を大成させた人物として知られていた。


 万物は無自性の空であり、かつ空即是色でもある。


 因果系の数珠つなぎの連鎖が色の世界を玉突きのように響かせている。世界はその振動の共鳴によって踊っていた。
倉橋総一郎は、古代ギリシャの数学者・天文学者であったユークリッドの「原論」と、その「空」の理論との間を埋める仕事を続けている。
そこには元々、ある巨大な相似形が存在していた。


 幅を持たない線分と面積を持たない点を前提とするそのイデア的な幾何学は、現実にその後の人類史の前提になっている。
高層ビルも、ロケットも、核兵器も、すべて彼の後継者たちによって導出された帰結だといえる。
 だが、その幅を持たない線や面積をもたない点は、現実世界には実在しない架空の「空」であった。
点を打てばそれは、拡大鏡によって面積を見出されざるをえない。線を引けばまた同じように拡大鏡がそこに幅を見出さざるをえない。
 「空」によって築き上げられた人類の文明を、ナーガルジュナは正確に予期していた。1800年前の予言であった。


 総一郎は、栃木県日光市に降り立った。そして華厳の滝に、虹がかかるのを見た。
それは幾何学的なアーチと、流体力学が生み出すカオスの飛沫となって総一郎の内面を襲撃した。

 その夜、倉橋総一郎はあのいつもの夢を見た。


 彼が21歳の頃の不思議な記憶に結び付いた夢だった。時はゼンマイ仕掛けの時計のように簡単に巻き戻り彼をいつも21歳の心へと連れ戻す。
夢の中で、彼は肉体を失っていた。正確には、彼の体はなんらかの疫病によって菌類に蝕まれ、ハチの巣状に穴だらけになって徐々に内側から空洞になり
やがてペラリとした皮膚を一枚のこして消滅していた。
 後に残ったのは、彼の自我だけであった。
 彼の自我は、脳の中には存在しなかった。
 それは、かつては心臓が生み出す血流と脳の間に存在していたはずだった。心臓の鼓動が、彼の心をコントロールしていたからだ。
ところが心臓は失われた。脳もまた失われた。神経細胞や軸索のネットワークの間のインパルスであるはずであった彼の思考は、それを失った今も静電気のように
原子の周りを旋回しつづけている。


 彼は眼球を失っていたにも関わらずむしろ世界をくまなく展望することができた。むしろかつてよりも、世界は簡単な構造であるように理解できる。
彼はかつては自分の中にある世界をみていた。だが今は彼が世界と同一化したのだ。彼の体は素粒子の系を肉体とし全世界はその新しい手足のように意のままであるのを感じた。
自分の中に、70億通りの異なる自分を感じた。それが世界の端のほうにある小さな物体にひしめいているのを感じた。
 それは彼を形成するひとつの原子であった。
 しかしそれは同時に原子核を旋回する電子でもあった。
 質量の差異が実は錯覚でしかないほどの次元をその精神の中に知覚できるようになった。
 それを彼は「空」だと感じた。
 「空」。それはこれほどまでに多様な色彩を生み出すのだろうか?
 虹のようにその色と色の間に無限大の微分差異化の可能性を秘めているのだろうか?
 虹の色が何色であるかは言語によって異なる。しかしそもそもそこには無限の色を内包している。人は泡のように生まれて
水泡のようにこの世界に帰ってくる。それを駆動する熱が振動と摩擦から生み出されている。
命が命を玉突きのように生み出し、空間が空間を玉突きのように生み出し、そして時間はペルシャ絨毯のように複雑に編み上げられて再帰的に自分自身へと却っていく。
しかしそれでも、その外側に何かがあるのを総一郎は感じる。
空間の外側に、何かの気配のようなものを彼は感じる。
それが彼をそのような形態へと至らしめている。


 その何かの正体を彼は知りたいと思った。
 その時彼は、工藤怜と出会ったことを思い出したのだった。

 彼がその小倉山の山荘で目を覚ました時、工藤怜が目の前にいることを知って彼は動揺を禁じえなかった。
夢とその光景のどちらが本当の夢なのか見当識を失っていたのだ。
「おはようございます、総一郎さん」


 総一郎はしばらく口が聞けない状態になった。野鳥の声が外に聞こえる。工藤怜は、和服姿でいつものようにほうじ茶を入れている。
いつもそうだったようでもあり、それが錯覚であったようでもある。
 絶え間なく続いてきた日常の世界のようでもあり、しかし記憶が作り出した幻影のようでもある。
「お熱いですから、気をつけてお召し上がりになってください」


 その口調には、しかしやはりいつもの工藤怜のどこか挑発的な張りがある。あまりの熱さに舌が痺れて茶碗を離しかけた。
 やがて記憶は少しずつ自己組織化機能を再生し始めた。
 怜がどのようにして居場所を突き止めたのかは考えても仕方がなかった。怜はそれほどまでに有能であり、常に先手を打つ準備を怠らない部下だ。
しかしHowの問題はなかったとしても、Whyという疑問は宙づりになっていた。
「......どうしてここにきた。」
 だが答えはなかった。
 どうしてそんなことを聞くの?という困った笑みだけが答えだった。


 あなたが何について知りたがっているのか、その答えを知りたいのです。
 総一郎の心の中に、何かの言葉が急に浮かび上がって消えた。
 それは、歴史の彼方で誰かが口にした言葉と折り重なるように、幾重にもこだまして彼の内面の中にさざ波を作った。

 もしかすると、と総一郎は思った。
 自分はもう何度となくこの出会いを繰り返しているのかもしれなかった。
 歴史の中のあらゆる人生の中で、自分はそのとき工藤怜と出会い、そして当惑しながらも彼女の宿命から彼女を守るために闘争と逃走を繰り返していた、
そういう気がしたのだった。
 その時、工藤怜はエジプトの王妃であったようでもあり、スカンジナビア半島にすむ気立てのいい町娘であったようでもあり、それらどれでもなくあるいはすべてであった。
ただ、何かの運命の数珠つなぎが歴史を何度も何度も反復させ、記憶を再生し続ける。
 古びたレコードのようにそれは傷つき色褪せながらも同じ旋律を奏で続けている。
「......同じ過ちであるなら、我々はそこから解き放たれるべきなのだろうか?」
 総一郎はうわごとのように呟いた。


 工藤怜は、しばらく驚いたように彼を見つめていたが、しかし静かに彼に寄り添ってただ押し黙っていた。
 どのような選択であれ、それは繰り返された運命の中で必然であったに過ぎない。
フランスの数学者、ピエール=シモン・ラプラスが見出した万能機械、ラプラスの悪魔が見透かしたはるか未来の果実のように。

 「おいしっかりしろ!」
 ハッとして倉橋総一郎は我に返った。
 

 工藤怜に平手打ちを食らってしまっていたようだ。
 掌を組み顎を乗せ、密室の中で工藤怜と二人きりという状況に我ながら悦に入り、また下らぬ妄想に入り込んでしまっていたのだ。
 「......やれやれ、また下らない実験ごっこですか所長。ぼんやりアヘ顔になってまたこんなに涎垂らしたりして。
  いい大人がなんてだらしない有様ですか!!」


 返す言葉もなかった。
 オホン、と咳払いをし、工藤怜に真意を説明せねばならない。


 「実はジョニーXLが分身することについて詳しく調査することが必要になった。君からの報告があったアレだ。
  どうやら光が波と粒子の特性を同時に持っている事と深く関係がありそうだ。手掛かりはすでにつかんだ。
  我々の最初の大成果になりそうだぞ」


 工藤怜は、自分の顎をつまんで視線を泳がせていた。確かにそうだ。
 ジョニーXLこと裏松ケンタは、冷静に考えれても常識はずれの怪人だ。その正体を探る上でも、この実験は不可欠だ。
 なんだかわからないが、腹正しい存在でもあったし。解剖して内臓の隅々まで調査するのだ。


 「わかりました!!所長!」
 工藤怜は突然目を爛々と光らせて部屋を飛び出していきそうになった。
 「まってくれ!おい!」


 工藤怜は施錠されたドアに衝突して転んだ。
「......今ピンク色のパンツが見えた」
 (......白とピンクの横縞模様だった)。邪なヨコシマ、と口を開こうとする間髪もなく、
投げつけられたハイヒールの踵が総一郎の後ろの壁画に画びょうのように突き立った。

 ジョニーXLこと裏松ケンタは、その頃丁度、アカプルコから航空機で帰国してきたところだった。
彼はブエノスアイレスの柔道場にて柔道を極めてくるのだと言い残して東ティモールに向かい、地中海で泳いでいるらしいことが時々報告されていた。
 そして帰国した時には、柔道ではなく太極拳を修めて帰ってきたのだった。


 工藤怜は、無言で彼を捕まえようとしたのだが、その身のこなしはまるで流水のように彼女の力を受け流し、
彼女は彼の影に翻弄されるだけであった。


「おい、こっちこい!」怜は足元の石を拾って投げたが、ジョニーXLは突然顔面が変形してひょうたんのような形になり、
次の瞬間、爆発音とともに周囲に飛び散った。


 ......。ふと気が付くと工藤怜は背後から胸をわしづかみにされていた。
「......。」


「何してるの」
「お姉さんのおっぱいは固い」
「ブラジャーしてるだけよ」
「下に垂れてる」
「垂れてないわよ」
 隙をついて怜は、その腕をつかんで一気に背負い投げに持ち込み、ジョニーXLを組み敷いて自由を奪った。
「あぎゃー!大人の夜の寝技だ!寝技だ!!」


 ジョニーXLはしばらく暴れていたが、やがて大きく痙攣した後、静かになった。そのまま気絶したのだ。報告を待ちかねていた総一郎は、首をかしげた。
複雑骨折の原因は、組織にはよく分からなかった。実験は、しばらく延期とする他にどうしようもないのだった。

 真っ暗な暗室のところどころに、誘蛾灯のような微かな明かりがついている。
そのわずかな明かりによって、室内がテープ媒体を大量に保管する保管庫であることがかすかにわかる。
 埃の臭いを漂わすその黒い闇に閉ざされた息苦しい空間に、JazzanovaのBohemian Sunsetが静かに再生されている。
暗闇の中には人がいるのだろうか?


 闇の中を虹色に照らす小さな明かりの一つは液晶端末だった。そこで、Sminoffの瓶を傾けている人影がある。
まだ若い。-- 彼はその時、NASAの基幹システムから情報を得ているところだった。


 通信衛星から電磁波ノイズに偽装した電波を飛ばし、無線LANのパケットに偽装して遠隔から侵入したのだ。
虹色の光は彼のターミナルの文字列から放たれている。
夥しい記号とアルファベットの呪術的な呪文。それが何を意味しているのかは彼にしか読解できない。


 彼のターミナル上のログイン名はスペッキヲとなっている。だから総一郎は彼をスペッキヲと呼んでいた。
 かつて都立大と呼ばれていた首都大学東京に彼は在籍していたが退学している。
 名の知れた指導教官のゼミに道場破りのように殴りこんだものの、互いに失望して決裂した。-- 尤も、しばらくの間は彼の懐刀として
学会では活躍をしていたそうだ。だが、気が付いてみるとまったく畑違いの世界が彼を手招いた。
 ジャーナリズムの世界に身を置いていたが取材の過程で彼はハッキング能力を伸ばしていくようになる。
 あるバーター取引によって彼は写真週刊誌の記者となっていたが、その時の条件に付いては我々も知らない。
そもそも彼の経歴そのものがほとんど謎と悪ふざけに満ちていた。
 そんな彼のもう一つの顔を、倉橋総一郎は知っている。


 闇の中に、もうひとつの影がかすかに光を映じて現れる。総一郎だった。
「どうだ? 手掛かりになりそうだろうか」


 スペッキヲは答えない。
 彼の心は今、地球の裏側を飛んでいる。聞こえないのだ。それほどまでに集中している。
 総一郎は待った。かつてphilipmorrisのlongの5ミリと呼ばれていたLARKの青に火をつけた。

 NASAの基幹システムから、スペッキヲが掘り当てたもの。正確には、NASAの基幹システムを踏み台として利用する謎めいた何者かが
そのログサーバーに残している足跡から掘り当てられたもの。


 それは、スペッキヲが追いかけてきたネタにとっても、また倉橋総一郎にとっても大きな手掛かりになった。
 足跡の主はコペンハーゲンのレンタルサーバ会社を経由して香港の地下銀行のネットワークに侵入している。その過程でさまざまな圧縮ファイルを、
NASAの基幹システムの/tmpに飛ばし、どういうわけかそれを片づけないまま逃げるように回線をタイムアウトさせている。
 おそらくは、経路のどこかで探知に気づいたのだろう。
 彼は、映画のように銀行に侵入し、サーバ上から不正に送金を行っているわけではなさそうだった。


 意図的に足跡をつけながら、分かりやすい犯行に見せかけつつもっと別の目的を少しずつ埋めている、とスペッキヲは読んでいた。
 北朝鮮の工作部隊がかつてそういうオペレーションをやっていた。同じノウハウを持つ、まったく別の目的の何者かがいる。


 総一郎にとってその画面はただの文字列の並びでしかない。彼はプカリと煙を吐いている。
「どうだ?」
「......分析にはもう少し時間がかかる。」
 スペッキヲはやや声を抑えた。本当はもう何もかも終わっている。だが、しばらくの間は食えるネタだ。そしてこの男は金づるだと言えた。
「そうか、では月曜までに結論を。無理なら、代わりがいくらでもいる」
 彼のSmirnoffの瓶を取り上げると、そこにタバコを差し込んだ。吸い殻が飲み残しに浮かび、黒ずんだ濁りが広がる。


 大事なのは、真実でも結論でもない。
 手掛かりだ。


 総一郎は上着を肩にかけ、テープ保管庫の暗がりを後にしようとした。彼は毒のある蛾に似ている。
 襲ってくることはないが、万が一触ってしまうと焼けどを負う。身にまとう虹色は死を予告する模様を描いている。彼の端末上の虹色の文字列の光と同じように。
そしてあてになる駒はほかにもあった。

 総一郎は永遠のめまいへの片道切符を受け取り、螺旋の中に落ちていった大勢の人々について想像した。そして失神を誘う万華鏡のフラクタルを思い描いた。
 

 -- 今一番動かしやすいのが今たまたま彼だったにすぎない。
 そして彼の腕が衰えていないことを試す必要もあった。


 月曜日には二通りの筋書きを用意しなければならない。
 彼が、消えている場合のもうひとつのルート。そして、彼が期待に応えた場合の次の工程。総一郎は、エレベーターのドアに自分の脳裏の入り組んだアローダイアグラムが広がるのを眺めていた。

 スペッキヲをリクルートする過程で、倉橋総一郎はリクルーティングについて生まれて初めて考える羽目になった。
まず、笈菱グループの中に必要な人材を探すことは難しいと思われた。
 彼らは向こう半年まで分刻みのスケジュールを埋めきっている。そこから先も、予実によって変動はあるにせよ
ほぼ見込みの予定が見えている。
 何かがやれるためには、そのために必要な規模の人材が空いている必要がある。
しかし笈菱に限らず、組織は余剰な人材をほとんど許さないほど隙間なく何らかのプロジェクトを敷く。効率と合理性を追求する以上は
当然のことである。


 人材の空きがない以上、必要な人材はグループ外から調達する必要があった。
そのプロジェクトにとっては必要があっても、ほかの種類のプロジェクトでは別の人材が必要になるかもしれない。
そういうタイプのスペシャリストだ。
 知りもしない相手を雇うことはできない。ある程度は素性を知っている相手を、お互いにとって不幸な結果を生まないことを
確認した上で手筈の中にアサインしなければならない。
 スペッキヲの噂は、耳にしていた。そして、彼はあの工藤怜の弟でもあった。
もっとも、彼は高校時代から姉とは決定的に決別した人生を選んでいる。彼等の人生はまるで二つそろわなければバランスが取れないような
二つの極に振れたパズルのように思われた。


 世界中の時の鐘が凍り付いてしまうかもしれない。そんな月曜の早朝に目を覚まし、総一郎はいつもとは違う朝の始まりを知った。
スペッキヲからのデータの受信。それは81に分割されたPGP暗号メールであった。

 スペッキヲは一筋縄では行かない曲者だった。彼は常に相手を試し、彼の期待に応えない事にはすべてが四散するような仕掛けを
アウトプットに添えてくる。
 如何なる責任も巧妙に回避する彼の要求だけをなぜか黙認せざるを得ない。彼を雇ってしまったことが罠だったのかもしれないという気さえし始めた。
あの工藤怜の弟であるということが、疑問に思えるほどの真逆の食わせ物だ。
しかし、彼の要求を呑めば、彼はいつも期待を上回った答えを用意していた。


 81に分割されたPGP暗号は、データのマクローリン展開を要求していた。
そして、末尾の符号の重回帰分析と多変量解析を要求していた。


 工藤怜がそれを暗算で解いた。
スペッキヲは、姉がこのプロジェクトに関わっている事を知らなかったのだろうか?
それとも、姉が関わっていることを確かめるために細工を施したのだろうか?


 描かれたグラフが、7つのマークを描いた。
それは、総一郎にとって心が震えるような光景だった。
スペッキヲの力が必要だ。

 工藤怜は、スペッキヲが自分の弟であることを知らなかった。そして本人に会ってさえそのことに気づかないようだった。
スペッキヲは、黒曜石を散りばめた自分のオフィスを海浜幕張に構えている。
太い道路が交差し、マンモスのような巨大なビルがそびえているにもかかわらず普段は人の気配もない。倉庫とトラックだけの街だった。


「一体、こんなところに住んでいたらどこで日用品を買うんでしょうね」
「......近場に、どうやらコストコがあるらしい。いずれにしても、真新しい廃墟のような不思議な虚しさを感じる光景にはかわりないな......」


 複雑な電子錠が4重に掛かった金庫のようなドアが開いたとき、外と中の気圧の差を思わせる音がした。出てきたのは
土気色の不健康そうな猜疑的な目をしたやせぎすの男だった。銀色に光ったクロムハーツのアクセサリーを身に着けている。男は黙って奥へと進んでいく。
総一郎と怜は、入っていいのか?とややうろたえながらドアを閉めて後に続いた。
 自走する多種多様なロボットが走り回る、らせん状に内側へと続く廊下がめまいを誘う。両脇にドアがあり、1Fであっても404号室、501号室など
混乱を誘う部屋番号がならんでいる。3体の自動掃除機のようなものが二人の後をついてきた。
ゴーンという大きな古時計のような音がして上を見上げると、天井がところどころにしかない。廊下の一部が中庭になっており観葉植物が密生している。


 そして先を進むスペッキヲが、新たなるドアの向こうに消えた。二人がそのドアに続こうとすると鍵がかかっていた。
後ろで大きな男がした。廊下が巨大なゲートで閉ざされた。
「?!」


 静寂に覆われた。閉じ込められた。
「おい」
 工藤怜が、周囲を見回し、脱出の手掛かりを探す。3体の自動掃除機と、壁を這う太い蔦、そしてところどころに埋め込まれたシェルフ。
それだけだ。あとはつるりとした大理石の壁面と重金属のドアしかない。

「やれやれ......」
 総一郎はそのうち何とかなるだろうという風に考える事にした。
 スペッキヲは何かを準備するために奥に消えただけで、すぐ戻ってきてドアは空くのだ、という風に。
だからおとなしく行儀よくしていれば、いいだけだと。
 10分が過ぎ、20分が過ぎた。
「......どうしたんでしょうね」
 工藤怜が沈黙を破った。
「単に、閉じ込められたのかもしれない」


 この建物にほかの出入り口があるのなら、スペッキヲはそこから出ていけばいいだけなのだろう。そこまで詳しい情報は得られなかった。
この建物はそもそも地図上は更地であるはずの地域に存在していた。
 雨ざらしの天井からやがて小雨が降り始めた。そしてその時、怜はその雨ざらしの通路の両脇に排水溝があることに気づいた。
覗いてみるとそこに地下の水路が通っている。時折真っ赤な何かが横切る。錦鯉が泳いているようだ。
「所長。」
「ああ、だが排水溝が狭すぎる。彼が戻ってこないなら、我々はあのドアを壊して出ていくしかない」


 怜は腕時計のタイマーがきっかり30分を経過したのを確認し、ドアを引いた。びくともしない。ガタつく音もしない。
ドアと壁が真空も残さないほど密着している。そして鍵穴は外側に確認できない。どのようにしてこのドアが閉まったのかも
二人は見ていない。試すまでもなくどうやってもドアは開かないだろう。


「とりあえず状況を整理しよう。俺たちはスペッキヲに会うためにここにいる。
 彼らしき男はでてきたが、あちらのドアの向こうに消えた。我々は途中の通路に閉じ込められ、今我々は雨に打たれている」
「そう、雨に打たれている。そして私には17:00のミーティングの予定がある」
「今、15:42分だ」


 怜はG-SHOCKを確認した。そしてどこからともなくTOUGHBOOKを取り出した。胸の谷間にでもしまっていたのだろうか?
電子錠に侵入し、コマンドを叩くと、ドアが開いた。


「行きましょう」
「なるほど」
 二人は閉ざされたドアの先に進んだ。

 ドアを抜けた先に、エレベーターがあった。地下666階しか行き先が選べない。二人はそれを押した。
重力が少しずつ緩む。


「この表示が確かなら、このエレベーターもまた我々をしばらくの間軟禁状態にするのだろうか」
「そうかもしれません。そしてこの籠から脱出しても地上ははるかに遠い」
「まいったな」
「......。」


 スペッキヲが何を考えていて、なぜこんな設備を持っているのかは不明だった。
民衆の多くは不可解な財源を隠し持っていて、本当は経済は極めて安定したものだったのかもしれない。
 怜の弟でもあるスペッキヲが、何がしかのものをどこかから相続しているという情報はない。
それとも彼は、そのクライアント先の多くから何らかの形で巨大な支援を得ているのだろうか?


「ドアが空いたら、マントルがうねるマグマの海がまっているかもしれないな」
「そうですね」


 ふいに重力が戻る。ドアが開く。そこに、また先ほどと似た回廊が続いている。今度はドアはない。
野球のスタジアムを思わせる広い空間がその先にあった。虹色の光を明滅させる黒光りした巨大な機械類がひしめいている。
ロボットアームのようなものが中空に吊ってある。動きはない。ただネオンを瞬いて黒光りしているだけだ。
その雰囲気は深海の巨大な生命体のようでもあるが、生命感はない。
 スペッキヲはそこにいてしゃがんで靴ひもを結びなおしていた。
「何をしていたんだ?」
「歯磨き粉が切れているような気がしたので確かめに戻った」と彼は言った。

 スペッキヲが奇妙な組織の取りまとめ役であることを総一郎はそこで初めて知った。
ドーム状の空間を犇めく機械類は公安の管区の通信傍受とその分析に使われている。
世界中につながっているインターネットは実は物理的にはもっと単純なトポロジーを持っている。
元々は電話を想定して敷設された日本列島中の電柱を結ぶ電線のメッシュは、列島の外との通信手段が指で数えられる程度の海底ケーブルの束に集約されている。
スペッキヲたちは、IIJの海底ケーブルのログの分析を公安調査庁から受注していた。
 実質的には、日本から海外へ出るあらゆる通信データを完全に把握している。
ただし公安の民営化が進み始めているとは、聞いたことがない。それ以上のことは何も明らかにならない。
明らかにならないということは、つまり知っている人間は皆、利害当事者だけだということであった。


 全体では一万七千人もの人員が世界各地の類似の設備に点在しているという。
彼らは来るべき何かのために情報を高速で分析している。
来るべき何かが何なのかは、その一万何千人のなかの一握りだけが知っている。
一万何千人の大半は、本当の目的ではない目的を伝えられ、ひたすら手段を極めていくのだという。
それはまさに「産業」だった。その「産業」の集積によって、一握りだけが知る大目的は着々と進行していくのだろうか?


 怜は、目の前のこの謎めいた人物がかつて生き別れた弟であることを知ったら打ちひしがれてしまうかもしれない。
だが、そうでもないかもしれない。いずれにしても、それはいずれ彼女も知ってしまうことになるのだろう。


 総一郎は怜の横顔を盗み見た。怜と目が合うのを、総一郎はどこかためらった。

 怜は、その記憶の中で禍々しく光るぬらぬらとした漆黒の巨魁と対峙していた。
それは地上から火星まで届くような長大な長さの大蛇のような巨魁だった。


 邪龍は、竜巻をまといながら急に地上に降臨し、周辺を一瞬のうちにクレーターに変えた。
残された猫の額ほどの土地に怜は呆然と立ち尽くしてしまう。


 その巨大なうねりが急激に膨張しては伸縮し、分裂を繰り返しながら大量の鎌首となって怜を突き刺していく。
怜は、何故か自分がとても無防備な格好をさらけ出しているのを感じた。
体は、いたるところでむき出しに露出させられ、餅のようにむき出しの肉がはみ出している。
そんな肉という肉に大量の鎌首が食い込んできて、まるで心臓を食い破ろうとでもいうかのように怜は体を次々と突き破られる。


 その時、怜は、相手をなんとなく、知っているような気がした。
遠い記憶の中に隠された茫漠とした何か。何かが堰を切るように表に表出する。
 怜は巨大な黒い脚となっている自分を見た。その脚を締め上げるように鎌首はきりきりと蔦のように絡みついてくる。蔦は七色の死の紋章を刻み込むように
黒い脚となった怜に肉薄していく。


「私の中から、消えて無くなれ」


 怜は叫んだ。目の前にいたのは、かつて生き別れた彼女の弟であった。

 次の瞬間、目の前にジョニーXLが出現していた。
彼はスペッキヲと怜をふう、と吸い込んで巨大化を遂げる。
総一郎は、ただ単に「あっ」と言うだけで何もできなかった。


 何をやっているんだ、なぜここに出てきた。大変にマズい状況だった。
ジョニーXLは、ニタニタと笑ってゆらゆら揺れながらジワジワと総一郎に接近してきた。


「何をする」と総一郎は後ずさった。
 

「何か企みごとではおまへんかな」とジョニーXLはケタケタ笑った。
 そう、考えてみれば、何かをしていたのはこちらのほうだった。総一郎は、青くなった。
「全部、筒抜けやねん」とジョニーXLは舌を鳴らした。


 そしていつものように、尻の辺りから産卵をし、数えきれないほどの夥しい数の彼の分身を発生させた。
もうだめだ、と総一郎が思ったとき、爆発音とともに何者かがまた突入してきた。
天井が落ちそうなほどの爆発とともに周囲が白煙につつまれ、落下傘部隊が降下してきたのだった。


 彼らはベトナム戦争に投入された米兵の生き残りのいで立ちをしていた。
あまりの出来事に総一郎は強い立ちくらみを感じ、そのまま昏睡した。

 世界がなくなるところだった、と総一郎は思った。
怜が、回し蹴りでジョニーXLの巨大化した肉体を蹴り上げ突入してきた落下傘部隊と武装ヘリの機関銃掃射の中を二人で駆け抜けた。
 スペッキヲがどうなったのか、それを確認している余裕はない。
バイクに似た機械が朽ち果てているのを見つけると、怜はエンジンを吹かす。
「これで行きましょう」
「行きましょうって、どこへ」
「ここではない、私たちの未来へ」
 怜は何かに憑かれたように唇の端を引きつらせている。
総一郎は、頷いた。
 何が始まるのか分からない。
しかし、なんとでもなる。大概のことはそうだと、総一郎は思った。


 爆音を張り上げて、重力を置き去りにするようにバイクは走り出す。怜の胸を総一郎は初めて感じた。

 工藤怜は、小鉢の中にしょうがを下していた。豚バラを10分間漬け込み、玉ねぎを炒めて取り出し
汁気を取った肉を中火で炒める。そして玉ねぎを戻して漬け汁をさっとかけて強火で炒める。
 サラダを添えて、生姜焼きを作る。


 何もかもが、気のせいであったかのように平和な時間が流れた。
17:00からのミーティングも、研究所も、何もかもが遠い世界であったかに思える。
 タイの観光地、カンチャナブリで生姜焼きを作っている怜には、これが本当の現実のように思える。
今までの日々のほうが、狂っていた。そしてそれはいずれにせよ、遠い海の向こうの出来事であったにすぎない。


 あの日、海浜幕張の地下施設を抜け出した倉橋総一郎と工藤怜は、タイ国際航空を経由して、カンチャナブリへと脱出していた。
何から脱出をしたのか最初はよくわからなかった。
 何日か過ぎ、青いプールに怜が飛び込んだ水しぶきを見ているとき、ふと気がつくことがあった。
それまで垢のように背中にこびりついていたそれまでの過去から、二人は脱出したのだ。


 何も起きることはない。
 当たり前のように、午後はプールで泳ぎ、泳ぎ着かれて夕飯の支度をし、そして明かりを落としてセックスをし、
朝、鳥のさえずりに気がついて目を覚ます。石窯で焼かれたベーカリーとともに、粗びきのブレンドコーヒーを楽しむ。
カーテンが風に揺れ、室内を和らかい空気が通りすぎていく。
 静かだった。食器を洗う音と、鳥の声だけが聞こえた。光はまぶしく外のプールの青さを反射して世界を白く透明に映し出していた。

 果物の女王とも呼ばれたこのマンゴスチン。そして果物の王様とも呼ばれたあのドリアン。
デリケートなその食感を思いながら、総一郎は怜と深く交わっていた。
 怜の心は、謎につつまれていた。どれほど時を共にしても、その距離はある間隔以上には狭まることがない。
そのもどかしさが、総一郎を少しずつ狂わせ、ますますその関係にのめりこませていったのだろうか?


 怜は、すっくと身を起こすと、半裸のままサイドテーブルに残っていたライチの実をひとつつかみ、それを齧った。
その背中は総一郎にとって目の前にあるリアルのようでもあり、どこか遠い時代に描かれた絵画の記憶にすぎないようでもあった。
 知れば知るほど、怜は総一郎が思い描いていた何かをはるかにしのぐ深淵な疑問を呼び覚ます存在に思われた。
そしてそれは時に、総一郎の探求心を挑発すると同時に疲弊させもした。工藤怜という人間は、それほどまでに複雑で多面的でありながら、
なおかつ同時に、表層的には伽藍洞に似た何かの欠落を見せている。その欠落感は、夜の羽虫にとっての誘蛾灯のように
かねてから多くの異性を吸い寄せ、混乱させ、攪乱し、搖動させ、狂わせてしまったことだろう。
そしてその奇妙な感覚はまた、怜自身にとってもどこか誤った何かへの衝動の発生源となる。人はそこに彼女自身も気がつかぬままに自身を翻弄させている何かの予感の、秘められたその存在の感覚を
予期させられざるを得ない。端的にいうなれば、つまり工藤怜には人の注意を圧倒的に引き付ける何かのインパクトがある、ということであった。
そしてそのインパクトが彼女自身のどこから発せられているのかは、どれほど注意深く目を凝らしても、あるいはどれだけ彼女と交わっても、解明することは決してできないということでもあった。


 それは総一郎に、遠い記憶の中の孤独を思い出させた。
暗い闇の中で、少しずつ消えていく街明かりの中、ひたすら何かを待ち続けているような、そんな孤独な記憶の欠片を思い出させた。
しかしそのたびに怜は、ふと唐突に彼に身を赦し、記憶の中の別の幸せな景色と香りの中へと彼を連れ去っていくのだった。
 どこからともなく、ジョヴァンニ・パオロ・コロンナのLumen ad revelationem gentiumの調べは響いてくる。
小鳥たちの囀りであったものが、人々の合唱に変わる。カンチャナブリの隠れ家であったものが、アカプルコのバックストリートに変わる。
ここはどこで、今いつの時代なのか。今とは一体いつのことなのか。


 怜が存在した。総一郎がそこにいた。
怜は先輩社員として総一郎を指導しているように思えた。そして、総一郎はその時、怜のことをそれほどまでには強く意識していない自分に気づいた。
不思議なことだった。この怜は、どの怜なのだろう。この自分は、どの自分なのだろう。
 総一郎は昼食を一人でとることにしていた。怜はしばらくはほかの同期らと昼食を共にしていた。だが、ある時期からその同期が付き合い始めた別の同期と連れ立つようになり、
怜は一人で昼食をとるようになっていた。
女性が一人で外食するのを総一郎はあまり見かけたことがなかった。そしてある日、怜は総一郎とエレベーターを乗り合わせ、一緒に食うようになった。
総一郎がどこで食べているのかを怜は知りたかったように見えたが、そもそもやはり一人で飯を食うことが女性にとってはきついものだったのかもしれない。
総一郎がまわっているいくつかの店は、昼時に運よく二人分の席が隣り合って開くような店ではなかった。だから結局、怜が使っていた店にいくことになった。
そして怜は、いつも4人から6人用のテーブルで一人で食べていたのかもしれないことを知った。そこには何か、記憶の中の洞窟の中の吹きすさぶ風の音のようなものを感じた。
 怜はたしかに優秀なOLではあった。そしてそんな自分自身を誇りにしているようでもあった。だが、総一郎ははじめから分かっていた。
どこかで彼女は、自分の中にある本当の核の部分とは何かが矛盾し始めている。自分を守るためにどうしても彼女は、自分を演じなければならない、そういう何かがあるということが分かっていた。
 そんな遠い世界の中のもう一人のその怜について、考えているもう一人の総一郎がいた。

 この総一郎と、その総一郎と、あの総一郎、俺はどの総一郎なのだろうか。
 その時、総一郎と工藤怜は、とある大手ゲーム会社で出会ったようであった。
日本にはトリプルA級と呼ばれるゲーム会社が片手で数えられる数だけ存在する。二人は同じ時期にその中の一社で出会った。


 不思議なもので、教育とはとにかく若手を苦労させることなのだとされていた。
 それは、おっさんたちがそう考えていた、古い世代の考え方なのだ、ということではまったくなかった。
単になぜかそういう考え方を持つものがありとあらゆる世代に存在していて、どういうわけかどこの世界にも存在するのだった。


 -- 手取り足取り何もかもを教えるのではない、教えられることのうちのいくつかは、彼等自身が自分で再発見して自分の体になじませていかねばならない。


 その時期は丁度、次の年の新卒が入ってきた頃合いで、ピチピチと若い彼らが本社での果てしなく長い研修を終えて
現場に配属される頃でもあった。怜は、その教育係として自分が貢献できるだろうと何故か確信していた。
総一郎は昼飯に行くたびにそんなことを聞かされていた。怜はそもそも、その間ずっと総一郎を教育しているつもりであるらしかった。
たしかに、怜は経験の割にはあまりにも能力も知識も高かったが、どことなく他人にリスペクトされる何かが足りないようにも思えた。
彼女は確かにデキる。だがデキることをひけらかし、必死になりすぎていたのかもしれない。
 できれば彼女と距離をおきたいと総一郎が思い始めてしばらくののち、新人たちの一人が二人の所属するゲームタイトルのチームに配属された。
驚いたことにその彼は、外見がゲーム業界人というよりは銀行マンのようなオーラを放っているにもかかわらず、彼がうまれる前にもう存在したそのシリーズの最初のころのタイトルから
最新作にいたるまで二人よりもはるかにマニアックに知っていた。しかも変態的に細部を愛しているようであった。
 もっとも新卒というのは元々どの業界でもそういうもんではあった。怜も総一郎にもそういう時期はあった。やがて彼も、ゲーム業界人らしいチャラ男になっていくのだろう。
そう思いたいのもやまやまだったが、彼はあまりにも危険なほどデキる男だったのだ。
 その前日のミーティングで、若いメンバーしかいないそのチームは、「明日新人がくるから竹刀を買ったよ。ジャージで出社して威圧しよう。教育だ」
と言っていたが、あまりに優秀な子であるがゆえにうちのめされ、みな各自の作業にのめりこんで現実逃避しはじめざるをえなくなってしまった。


 その新人の名は、仙國九兵衛であった。総一郎と怜が二人でやっていた作業の分量が多かったので、その作業に九兵衛が入ることになった。
大した難易度はなく、ただめんどくさすぎるほどの作業ボリュームがある。責任範囲はあえて決めず、バイキング料理のように、各自残ったタスクを好きなように逐次とっていく。
その作業の中に、いくつか地雷と呼ばれる、一見そうはみえないのにありとあらゆるものに影響を与えるはげしく面倒なものが存在していたがみなそれをアンタッチャブルな問題だとして、分かっていながら口にしないでいた。
 その地雷の一つを九兵衛が踏んだ時、ついに怜がぶち切れてヒステリーを起こした。八つ当たりが始まったのである。
真夜中の23時のオフィス。誰もがもう、少なからず狂い始めるα版の期限の直前のことであった。

 α版というのは、そのトリプルA級の大手ゲーム会社の中では事業部長が初めてゲームに触れてプロジェクトを解散するか続行するかを決めるタイミングなのだった。
事業部長とここでいっているのは、ファミ通なりニコニコ動画なりではプロデューサーとして有名人になっているタレント化した人々である。
彼らはメディア上は現場に口をだしまくって自分がゲームを作っているという顔をするのだが実際にはほとんど席にいることはないし現場にくることもない。
α版のタイミングで初めてタイトルを見る。それまでは現場の仕事なのだ。
その有名プロデューサーの上に、エグゼクティヴプロデューサーがいる。スタッフロールの最初か最後にでかでかと表示される名前、ゲームを作った本人であるかに思われる
その名前は、実は単純に広報上の理由で全部のタイトルに名前をいれることにとなっているだけだった。ときどき記者会見で答えるために情報を要求してくるどこの部屋にいるか社内でも誰も分からない謎の人物だと理解されていた。エレベーターでどこか最上階に近いところに上り下りしている。
 トリプルA級ともなると、起動時のブランドロゴが画面のどの座標にでなければならないかというルールが存在する。そのロゴを出すためには申請が必要で、
それを審査するためだけに存在する部署さえある。


 そうはいっても、社外からはカリスマ、社内からは謎の人物と思われているそういう人たちですら、昔はその当時の技術の最先鋭の使い手として現場で活躍した叩き上げだった。
単なる遊びでも単なる芸術でもない、幅広い人脈を互いにメンテし合って、生きている。互いが互いを期待し合うそういう戦場からもう降りられない。
彼らは彼らの世界をみているようだった。


 だが、総一郎も怜も、まだそういうことには興味がなかった。
 とにかく、プロジェクトがポシャると、一見社外的には上の者が責任をかぶっているように見えながら、何かよくわからぬ空気によって
失敗の当事者が追い詰められる。説明のつかない人事異動がはじまるのだ。10年以上開発が長引いている伝説の謎のタイトルに放り込まれ、永遠に続くR&Dを毎日毎日「ハイやり直し」となるかもしれない。会社を問わずそういうタイトルがある。発表だけされてリリースはされない。違うタイトル名になってリリースされる可能性だけ少しある。


 怜は叫び、叫び、そして立ち上がって九兵衛に何かよくわからないことを言って怒った。
ベテランの風間先輩が苦笑いして間にはいるものの、なだめきれないほど怜は何かが壊れて叫び続けた。
総一郎が怜との距離を取り始めた時期だったので、総一郎はやりきれない思いに駆られていた。

 工藤怜が叫んで叫んで叫び回って、九兵衛がキョドってキョドってキョドり回る23時のオフィス。
 総一郎は現実から逃避するように目の前の作業に没入し、とにかくその日の予定を終わらせて逃げるように退散した。
帰りの電車に乗り間違え、乗り換え駅を乗り過ごして戻りの終電を逃し、タクシーで何万円も失って帰宅すると玄関のドアのセキュリティが壊れていて入れなくなり、
24時間対応の業者が到着するまでコンビニで時間をつぶしているうちに午前3時となる。
対応は一瞬で終わったが、一万何千円をさらに失う。そのまま服も脱がずにベッドに倒れた。
 

 2時間ほど眠って、眠気を飛ばすために熱い湯船につかり、タバコとコーヒーを入れる。切れ味の鈍ってきた髭剃りはそろそろ買い替えモードかもしれない。
身支度を済ませ、部屋を出る。始発駅に近いので満員電車とはいえほぼ座る場所がある。ケータイの目覚ましをセットしてそのまま眠る。
 一体、あの後状況はどうなったのだろう。
朝のミーティングでそれは分かるだろうと思っていた。恐る恐る様子をうかがうと、工藤怜はドヤ顔をしていた。九兵衛はしぼんで土気色になっていた。
怜の肌のツヤが増している。九兵衛は昨日よりなにかがしぼんでいる。まさかあの後、若いエキスを吸われた(?)のだろうか?
 過酷な現場で生み出されるストレスを若者たちがどのように解消しようが、どうでもよかった。


 α版では様々な修正項目が洗い出されはしたものの、プロジェクトがそこで終わるという事にはならなかった。
実際にはそれはいつもそうなのだし、α版で何かがポシャることはなかった。ただ単に、ポシャるぞポシャるぞと吹聴しなければ、誰も必死にはなれないだけであった。


 α版からβ版のタイミングで、メンバーは大きく入れ替わった。仮組みを行うメンバーと、fix版への最終調整を行うメンバーはまったく別のメンバーになる。
その入れ替えが緩やかに始まったのだ。
 総一郎が担当していたのはE3や東京ゲームショウでのプレイアブルDemoで発表することになっている仕様には入っていないので
このまま立ち上げからリリースまでずっと同じパートを担当することになる。怜のパートは、β要件に入っていたのでその部分でfixすれば、そのタイミングで最終調整に入るかもしれない。
九兵衛は、少しずつマネジメントのサブとしてリーダーの知識を吸収していくだろう。
始まりは同じでも、プロジェクト終了時にはそれぞれまったく別の役割に分かれていくだろう。そういうものなのだ。
 同じタイトルの別チームのアメリカ人が、突然退職したということが週末のプロジェクト全体のミーティングでわかった。テスト用に出していたアラートをオフにする作業を
降られた後、揉めていたのは遠目に気づいていた。「どうやって!一億行以上アル!ムリ!」と言っていた。メインプログラマーは、何がどう無理なのか分からないという困った顔をしていた。
彼は昼休み即エレベーターに乗り、会社を出ると同時に英語でどこかに電話していたのを思い出した。だから何だということはない。これまでもこれからもいろんなことが起きていた。
そしてそれらはほとんど場合、何の影響もなく吸収される。
それぐらいの体制は仕上がっているのだった。

 総一郎は、その人のことをリスペクトしていた。その名前は、風間先輩だ。風間先輩なのか、右近ちゃんなのか、近松門左衛門なのか
よくわからなくなってきていた。
 総一郎がこれまでリスペクトを感じた人間は7人しかいない。
業界の黎明期の有名タイトルのメインプログラマーとしてファンに愛されているとある方が、総一郎の後に転職してきた。最初の飲み会まで総一郎は
その人がその人物そのものだと知らずに心配しながらOJTを任されるも、教える前にもうその人は自己流でやってしまい、
PCも謎のOSになっていてある意味教えようがないと思っていた。何かあるとすぐに総一郎が悪い、と怒鳴ってくるもののそれも含めてチャーミングなおっさんであった。
 だがそれに匹敵するぐらい風間先輩はすごかった。
そもそもこの会社にいるだけで、単なるサラリーマンに過ぎないクリエイターはスタッフロールに名前が載ってファミ通に取り上げられファンにリスペクトされていく。
どのタイトルも途方もなく売れ、ファンが熱狂する有名タイトルばかりであった。そういう、外から見たときのすごさはしかし
内輪からみるとメッキにすぎないことも多い。その例外が7名なのだった。


 RealForceの軽妙な打鍵音が止まらない。風間先輩はほとんど手が止まらない。調べたり悩んだりしたのは遠い昔のことなのだろう。
ほとんど考えも調べもしなくてもロジックが絶え間なく頭から出てくる。なおかつ、風間先輩は優秀な調整役であり、あらゆる意味で面倒見のいい話しやすい先輩でもあった。
面倒な問題が起こると、それはすべて風間先輩が巻き取る。だからほかのメンバーはなんだかよくわからないけど楽だな~仕事が、と思って日々を過ごしている。
いつ出社していつ帰宅しているのか誰もみたことはない。会社に不眠不休で住んでいるのかもしれない。
他チームとの調整では、風間先輩が入らない限りは、押し付け合いなすり合いになってしまう。だが風間先輩は、妥協点を探り、お互いで持ち合う落としどころや
痛み分けを何かこう、いい具合の下から目線を駆使して相手の立場に共感しながら、納得感のある話を展開していく(大体の場合、風間先輩はいちばんしんどいものを代わりに自分で受けて取引する)。
誰がやっているのかわからない等閑になりそうなことが漏れないのは、風間先輩が全体を見て細かい片づけの面倒もみているからだったりもする。
そういう縁の下の無冠のスターみたいな彼を、総一郎はひそかにリスペクトしていたのだった。


 そんな風間先輩であっても、時々、本音をぶちまけることがあった。
なんとかしてくれなんとかしてくれと絶え間なく彼のもとに訪れるメンバーの為に、彼は常に集中力を割り込まれて、全員が帰ったあとにしか集中して作業を片づける時間を取れていない。
「自分で考えろ!ふざけんな!」という思いがにじむ長いメールが全員にむけて送信されていた。
明け方5時のメールであった。

 

 そんないつ帰るのか分からない風間先輩は、地下アイドルの追っかけとしても有名な人物であった。
なんだかよくわからない蛍光ライトみたいなものを振りながら、例の振り付けで会場で踊っている。そのライトは何か名前があるらしいが総一郎は忘れた。
予備を8本常備するものだと風間先輩は言っていた。総一郎は地下アイドルのおっかけではないが、興味本位でテクノ音楽のイベントには足を運んでいた。
そういう場所にも、何かあの手の蛍光するいろいろなグッズはある。そういう場所には、ネットでは話題にならないものの会場に居合わせたものはみなああ、そういう奴がいた
と全員の記憶に残っている有名な一般人がいる。どこで売っているのかわからない光る猫耳の二人組があらゆるイベントで目撃されていた。
総一郎は、違う意味で人々の記憶に残ってしまうタイプではあるだろう。彼は場の空気からは浮きすぎていて、ギュウギュウ詰めの会場であっても彼の半径2メートルに
謎の誰も近づかないエリアができていた。総一郎は、彼等とは全然ちがう意味で、誰よりもその場を愛していて、覚せい剤がキマっているかのような挙動で暴れていたのである。
 そんなこんなで、彼らは平日よりも週末に体力を消耗し疲労困憊してしまうという若さゆえの過ちを分かっちゃいるけどヤメラレナイでいたのだった。


 怜は怜で、自分はプログラマーなんだと言ってみたり、ドット絵師なんだといってみたりコロコロよくわからない矛盾したことを言っていた。
馬の絵を描いているんだ描いているんだと言っていた。彼女はどことなく、優秀である割に行き当たりばったりなところがあり、ムチムチとしたワガママボディを張り切らせたふてぶてしいナマイキ娘キャラになっていきつつあったのである。
若い男を挑発して精気を吸い取る床上手なのかもしれない。どうでもよかった。
総一郎は独身であるが、性欲を処理しようとして怜のカラダが急に脳裏に浮かぶと敗北感にさいなまれてふて寝せざるをえないのだった。


 怜のことを考えるたびに総一郎は混乱を覚えた。
彼の心は怜のことを考える事を求めると同時に、禁じた。
......まったく別の出会い方をしていたら、まったく違う今があったのだろうか?

 まったく別の出会い方とは一体、どのような出会い方だったのだろう。
 そして総一郎の眼前に突然、空中に浮かぶ巨大な無重力の水銀のような水たまりが現れた。
それは鏡のように周囲の世界を反射しているが、ゆらゆらと歪みながらここではないどこかを映し出す。


 シイタケがよくとれる雑木林に覆われた山間の盆地のような景色が広がる。何もかもが違う色合いにつつまれて
そこだけ別の歴史を持っている集落がある。
 怜はそこで、気立てのいい村娘として、年老いた村人たちの世話を焼きながら暮らしていた。
総一郎は、ひょんなことからそこに落ち武者のように落ち延びている自分に気がついた。甲冑に身を固めてさび付いた刀を持っている。
 甲冑を脱ぎすて、刀を滝つぼに投げた。戦いつかれていたのだ。もう、国盗りの時代は終わった。
誰かが天下を取り、ルールを統一しなければ争いは終わらないと信じられていた時代が終わった。
少なくとも総一郎の中ではそれは終わっていた。誰でもいいからその面倒ごとを引き受けて、彼のもとに全員が降伏すべきだと訴えていた。
そうするといつも、暴君が現れ、面倒ごとを引き受けもせずに利権だけを貪るのだった。


 シイタケを取って暮らそう。総一郎はそう思った。
シイタケがあふれるほど実っているのだ。しかもどういうわけか年じゅう生え続けて、しまいには村人の背中にまで生えている。
そんな村人の背中から、工藤怜はシイタケをはがしてやっていた。かゆかったでしょう、というわけである。
七色に光るシイタケ。12色に光るシイタケ。牛のふんに生えるシイタケもあった。
それを口にすると、1年間は夢心地だ。この村では、何もかもが思い通りだと言っている旅人たちもいた。


 そんな村がどこにある、と思っていたが、総一郎はいつのまにかそこに流れ着いていた。

 だが、村は少しずつ変わり始めていた。
子供たちが泣き叫び、奇妙なことが起きる夢をみるらしかった。


 総一郎は胸を痛めた。誰も見たことがないほどの巨大なアヒルが空から落ちてきて、村人をついばんで食ってしまうというその同じ夢について
何人もの子供たちが口をそろえて訴えていた。
 その夢をみた子供たちは、目が覚めると左の鼻毛が1本だけ30センチも伸びる。
のどに詰まってつらくて辛くて、泣き叫んでいるのだ。


「あんたが来たせいよ!」
 老婆が石を投げつけてきた。
「そうだそうだ!」
「こいつが来てから村が変わった!みんな目つきがおかしくなった!」
「洗脳する気か!」
「左のポッケに黒死病!」
 村人たちは歯ぎしりをし、地面をバンバン叩いたり足を踏み鳴らして総一郎を威嚇するのだった。


 総一郎は、疲れ果てて寝込んだ。もうどうでもいいやと思った。死のう。なんでもいいからはよ死のう。
でんぐり返りながら移動し、滝つぼに落ちようとしていたその時、
「待ちなよ」と声が聞こえた。


 大きなブナの木の陰から、工藤怜が顔を突き出していた。

 工藤怜が顔を突き出したと同時に、何者かの野太い雄たけびがやまびこのようにこだました。
おきろ~おおきろ~お、と言っているのだ。


 打ち鳴らされる太鼓の音が四方八方から差し迫ってきている。
辺り一面を取り囲まれているのだ。


 ふんどし姿の若い衆が、太鼓を打ちながらしながら茂みの中から集まってきている。ドンドンドンドンわっしょいわっしょいドンドンドン。
工藤怜が、口を開きかけるその瞬間と、太鼓の若いふんどし若い衆たちの接近とが続けざまに押し寄せて総一郎は岩に激突した。
 いままで何が起きていて、そしてこれからは何が起きようとしているのか、一瞬の予断も許さぬ状態になっていた。担ぎ上げられ、
衣類をまくり上げられ、男たちが踊り狂うたき火の前で総一郎はわけもわからぬまま怜と交わらされ、何度も何度も射精した。
怜はまるで、クジラのように巨大な肉ビラとなり、総一郎を頭から食らいつくそうという構えであった。
太鼓がいよいよ激しくなり、肉ビラは津軽海峡の潮騒のようにざわめき始め、怜は宇宙に向かって金切り声のような呼びかけを発した。
 空からはオレンジ色の飛行物体が次々と飛来して、しまいには本当に、巨大なアヒルが落ちてきたのだ。
 若い衆は興奮し、張り裂けんばかりに太鼓を殴りつけ、総一郎には内臓がはみ出そうなほどの激しい射精が訪れた。


「やめろー!来るな!来るとビビンバだぞ!」
 村のほうから、わけのわからない悲鳴が遠く響いた。アヒルが村に襲い掛かったのである。

「おいこら!なんでアヒルがでてきたんだ!このやろう!」
 村長が飛んできて総一郎を問い詰めた。
 総一郎は、説明を試みたが、結局のところは、知らんというしかなかった。
なぜ空からアヒルなんてものが、それも東京スカイツリーみたいな大きさのやつがでてこなきゃいけない時代になったのだろう。
時代が求めたのかもしれないし、宇宙の法則が乱れたのかもしれない。
「さっさと、たわしこうてこい!」村長はブチ切れて総一郎を3回も殴った。そのたびに若い衆はまわりで太鼓をドンドンと叩いた。
「わっしょい」と若い衆は声をそろえた。
 工藤怜はさっきから腰をくねらせてくねくねくねくねと踊っている。マントを羽織って空を飛んでいる男が見えたが
もう何もかもどうでもよくなってきた。
 たわしを買わなければ世界がなくなってしまうに違いない。地盤沈下が起こり、マントルを突き抜けて総一郎は地球の反対側のブエノスアイレスの辺りに飛び出してしまった。
強い風が吹き抜けて、地球は巨大なダンスフロアになる。大事な要件を思い出したみたいに、空がああっと叫び声をあげた。
ボルネオ火山が快感を感じて噴火したのだ。

 人間というものは、無力感を感じてショックを受けた時に、大きな当惑を感じるものなのであるが
実はその時、深層心理の中ではある働きが機能している。
 それまでの確信が突き崩れた結果として、深層心理はそれまでの間違った仮説ではなく正しい仮説を求めてあらゆる情報を無批判に信じ込みやすくなる。
その結果としてまた新たなる錯誤に陥ることもある。いずれにせよ、常識が粉砕されるような強いショックを受けた時に人は洗脳されやすい。
なぜこんなことが起きるのだろうということを、それを説明できる新しい理論とともに必要とし、ストレスコーピングを達しようという働きが心理の機能として備わっているからである。


 ラプラスの悪魔プロジェクトは、まさにそれを前提とした全方位型のシステムとして確立されつつあった理念モデルである。
だがそれは、始動した瞬間に時空をゆがめて宇宙に不可逆的な影響を開始しつつあった。
 宇宙の因果系に別次元の玉突きが影響を与える結果を生んでしまったのだ。
システムは、工藤怜の脳細胞をクローニングして作られた有機細胞ネットワークの上に走るモナド・テンソルベースの論理言語でプログラミングされていた。
 システムがシステム自身を食い破り、ネットワークを突き破って素粒子を振動させ、時間を超えて過去にも未来にも影響を与え始めていた。
神だ、神が今、我々の技術力によってようやく物理空間にその肉体を得、過去を書き換えて宇宙の始まりの時点に自分自身の存在の爪痕を立てなおそうとしているのだ、と総一郎は思った。

 そのシステムは、確かに工藤怜の脳細胞に基づく万能細胞から作られた有機的な細胞ネットワークをハードウェアとして用いていた。
だがシステム自体は、論理空間上のコンセプトを論理言語によってモデリングしたものを用いていた。
 にもかかわらず、それは次第に制御不能な反応を繰り返していくようになっていた。細胞のテロメアーゼが不活性化し、
細胞分裂がとまらなくなり、ある日ネットワークは試験管からあふれ出し、研究室のフロアに漏洩しているのが見つかった。
それを回収しようと試みたスタッフは、ハロンガスの噴射で窒息死した。システムはすでに研究室を支配し始めていた。
 総一郎にはわかっていた。あのシステムには、宿主であった工藤怜の意識のコピーが存在している。工藤怜は、自分のコピーを宇宙のはじまりから終わりにいたる隅々にまで
増殖させようと試みているのかもしれない。そしてそれは、アダムとイブがもっていた根源的な「本能」の完全なる具現化なのかもしれない。その時、始まりと終わりは円環となり、
永遠の輪の中の普遍性の中で完全なる真理と命が合一する。


 怜、と総一郎は思った。
 -- お前には、あと何が足りないんだ。

 かつて流行というものは、......尤も、それは我々の知らざる遥かなる古の話であろうが、流行というものは
貴族の、あるいは権威ある王室の所有物を所有したいという欲求が社会階層の上から下に向かって伝播する現象として
説明可能だったとされている。模倣という行為に向けられて人間性は強く駆動されているのだ。
 近代社会において個性の表現というものは、服装の最大の役割とされるようになった。社会階層は平準化し、
人々はやがて階層の差異ではなく能力の差異を表現せざるをえなくなっていく。......と、その後の流行を暫定的には説明してきた。
役に立たない無駄なものを、見せびらかせることがある種の余裕とステータスの証であった時代もあったのだ。
......17世紀フランスのルイ14世の話をしているのではない。


 スペッキヲは美しいものを求めて不断の戦いを生きているのだ。そこにはダンディスムがある。ボードレールのような。
人が生まれたままの姿でいることは粗野なことだと彼は考え、美しい存在に向かうための厚化粧によって崇高さへと漸近を図っているのだろうか。


 一人の女がいた。その女は、どこか薄幸の予感のようなものを木綿の布のように着た女だった。人は彼女をみると
そこに各々好き勝手に自分の不幸を投影して、何か深く考え込んでしまう。そんな水鏡のような女だった。名前は五十貝きみ子である。28歳。


 きみ子には不思議な力がある。いつも何か不吉を身に帯びたような彼女は周囲の人間関係の中で常に心配をまき散らしていた。
しかし、年に2、3回だけ、彼女は控えめに笑みをこぼす瞬間がある。
その時、ある種の圧倒的な救済感が彼女の周囲を木漏れ日のように照らし、世界のあらゆる諸問題が一挙に突破口を突き抜けたように解決してしまうのだ。
 スペッキヲは、きみ子を守るために、自分は生まれたと自覚していた。自分は騎士道を生きる。そして、主たる女王としてのきみ子を賜った。
そう考えたのだろうか。
 鞘型のシンプルなドレス。ポールポワレ。マドレーヌ・ビオレ。ドレーパリー。きみ子は美しさで武装し戦場から戦利品を獲得するだろう。

 倉橋総一郎は、こう考えていた。
 結局のところ、比喩というものは、伝わらないものなのである。
 それは主に次の理由からそういえるだろう。人間は、言葉によって想起するものが違う。何を想起するかが違うのは各々の記憶した対象が異なるからである。
同じリンゴを同じ角度で同じ回数見せられただけの、仮想の人間を二人想像してみる。彼等二人の間では、リンゴというものに関してあらゆる比喩は共有可能かもしれない。
彼らの人生は、リンゴを何回かみて、そして息絶える。そんな仮想の人間だ。だが我々は、そうではない。
「そこにはリンゴが3つありました」と言われた。
 なるほどそれは誰もが理解し、分かる事柄のように思われ、信じられている。
「そのリンゴの大きさは何センチなのか?」
 と問われれば、だんだんと話が通じ合わなくなってくるだろう。最初、リンゴについて誰もが理解を共有していると思われていた。
ところが、あるものはそのリンゴを、3つとも直径3センチだと思っている。またあるものは、一つだけ青いリンゴがどうしても混じっているものなのだと信じている。
そうなったときに、リンゴのような色をした壁というものについてあらゆる比喩は意味を共有されない。
比喩とはそういうものなのであり、共有されることをもともとそれほど必要としていない。それどころか、人は共有できないことをむしろ楽しむ。
 ”それはアカプルコのファストフード店から北に向かって通りをバイクで走った時、右に見えるガソリンスタンドの看板に描かれている男の顔に似ていた”と言われても
人はそれを楽しむのだ。そんなものは、そこに住んでいる人間しか知らない。イメージは共有されない。
 ではボヘミアの平原を吹き抜ける伸びやかな風と言われて、その風を記憶から引き出せるように感じるのはなぜなのだろう?
多くの人々にとってボヘミアについて知っていることの全ては、インターネットやテレビや雑誌、映画から得られた情報にすぎない。
その風は、インターネットやテレビや雑誌、映画からは吹き抜けてはこない。だが、風というものはどういうもので、ボヘミアのような地理条件であれば
どういう風に吹き、そしてそれは肌にどのような感触をもたらすのかを人は想像力で補う。補った結果は人それぞれ別様である。
それが共有されないことが、つまりむしろそれが各々の想像力を駆動する創造的な経験であることが、そこに愉悦と楽しみを生み出しているのだ。
 工藤総一郎は、そう考えていた。だが、そう考えたからと言って、そこから何かが生み出されるわけでもなかった。

 五十貝きみ子は、ブラック企業のOLであった。
 そのブラック企業とは、品川区の中でも運河に接したエリアにそびえるとあるタワーにオフィスを構えた、ギガビット・エンタープライゼスであった。
ギガビット・エンタープライゼスにはさまざまな噂があった。
 その噂のほとんどは、内部関係者であるきみ子にすら、根も葉もない噂に過ぎないものだと思われた。
ところがある日、転職者の一人が、"光過敏室"に軟禁されているという事実を知らされてしまったのである。


 その光過敏室こそが、"ツカエナイ"社員を軟禁し、洗脳し、自主的な退職へと追い詰めていくと外部で噂されているその現場だったのだ。
そこは、物置に似ていた。現に、物置であり、捨てていいのか分からなくなった古の備品の倉庫であった。
そこに何故かテーブルが向かい合って並んでおり、360度から監視カメラが監視する中で、何かが行われている。


 ギガビット・エンタープライゼスは、山のような応募者から選りすぐりのエリートを選別して採用しているというイメージを外向けには見せている。
だが実際は、その山のような応募者を選別するだけの時間はないし、そもそも応募書類は仕事が欲しい誰もかれもが、盛って見栄えの良い内容に水増ししているのだから、
真に受けてもほとんどの場合、残念なことにしかならないことが多かったようだ。
 もっとも、かつてはむしろ書類での選別は重視していた。それはこの会社が、まだ巨大企業になる前の話だった。
要求スキルは、当時はコモディティ化していなかった上、業界は当たり外れの読めない博打商売だと思われていたころがあった。
応募者が尖がった変人であったとしても、スキルを持つ才能を余すところなく独占して飼っていくことが、他社に才能を渡さない戦略上必要だった時代があった。
そしてやがては、才能よりも、すでに社内を支えている一風変わったベテランたちと、"相性の悪くない"人間を選んでそろえていくことが重要になっていった。
彼らはノウハウを組織に溜めた。属人化したワークフローはほとんどなくなり、既存プロジェクトのコピーを量産する段階へと至った今、
求められている人間はもはや、適応力と精神力と体力に優れた肉体派でさえあれば、もう誰でもよくなっていた。仕事内容にアレルギーさえなければである。
そういう意味で、人材の確保は難しくなっていた。書類や面接ではもはや判断できなくなっていた。大量の人間を投げ込んで、大量に挫折させてそれでも生き残る数パーセントを
二軍から一軍へと昇格させる以外なくなっていた。そのやむを得ない構造は、ブラック企業体質だと外目には映るらしかった。
その選別の中でも、仕事内容に対するアレルギー発作の検査を行うのが、"光過敏室"と札がかかったその部屋の正体であった。


 転職者には、さまざまな”教育”が行われる。
 ”教育”は会社ぐるみで行われるというよりは、それぞれの部隊の管理職が、新入りを躾けるために勝手に駆使している様々な手管であるらしかった。
新入りが、部隊のスタメンとしていきなり活躍することは、望むべくもない。そんなことができるほど、スタメンが無能であるはずはないし、新人が有能であるはずもない。
そして、何よりも重要なことは、仕事は、”組織”で行うのであって、”個人”で行うのではない。
個人が様々な個人的な頭脳なり才能なりを発揮することは求められているにせよ、その頭脳なり才能なりは、部隊のものであって個人のものではない。それが大前提なのであった。
イニシアチブを一本化するために、まず最初に行われる”教育”は、その環境に対する情報を与えることと同時に、どれほど優秀であろうと、ここでは組織に頼らなければ何一つできないという無力感を”躾け”ることなのだ。
躾けのできたものにしか、情報は開示されないし、独断で行動しようとすれば、間違った情報ばかり教えられ失敗へと導かれていく。そのことにだんだんと気が付いていき、
そしてやがては次の新人に対して、同じように”教育”を行えば手懐けられることも覚えていく。それが、この会社における”教育”なのであった。

 ギガビット・エンタープライゼスという環境で生き残るということは、まさにサバイバルゲームである。
外目には、一見華々しいスターたちが才能を花開かせる楽園のように見えるその場は、かつてここを抜け出した者がいうに「液体風邪薬を回し飲みして2,3日会社で不眠で仕事する」
場だったそうだから、いまだかつて楽園であったことはない。そうでありながらも、人はそこに強いやりがいを求め、そこで生き残ることに栄冠を見る。
そういう場所なのであった。


 どれほど有能なメンバーであれ、基本的には余計な仕事が増えることは望まないほど、”見えてる予定ですらパンク気味”
の日々を生きている。ここで生き残るためには、さまざまなテクニックを駆使しなければならない。


 テクニックの一つは、”なるべく大勢を巻き込め”ということである。”動かしたい人間が多ければ、まずその上の人間を巻き込め”ということである。
自分の仕事のために相手の協力が必要なのではなく、全員が関わる仕事を成功させるために、誰かが非協力的であってはならないということと
我々は組織の中で個々のポジションを奪い合っているのではなく、全員で成功することで外の別の組織と市場を奪い合っているのだということを、常に基調に響かせていく必要がある。


 とはいえ、誰も予定にない仕事が割り込んでくることは望んでいない。協力を仰ぐ前に、相手に負担が少なくなるよう事前の準備を整えていくことも重要だ。
何もかもを相手に丸投げするのではなく、
相手がほとんど何も判断しなくてもいいような、提示された選択肢のどれかを答えるだけで済むような、相手がどれだけ熟慮してもその選択枝のどれかを結論せざるを得ないような、
相手のための答えをはじめから予想して準備して提示することが大事だ。
 そういうことができないと、自分の価値が下がってしまう。周りの時間を食ってしまうだけの、伝言ゲームしかできない必要のない”機能”になってしまう。
何もかもを一人でやってしまうのであれば、勝手に失敗して自分で責任をかぶる"仲間ではない人間"として孤立してしまうだろうが、
何もかもを他人に丸投げするのであれば、必要のない伝言ゲームの間の"ノイズ"でしかないと思われもする。
他人を巻き込みながらも、相手が短時間で短い答えを返せるような依頼を、あるいは選択肢のどれかを選ぶだけで終わるような精度の高い選択枝を投げ、
テンポよく他人を巻き込んで合意形成を得ながら結果を出せる能力。それが、ここでのサバイバル能力なのだ。

 ”こんなことを聞くと、馬鹿にされるのではないか”と思って、分かったふりをすると、後々大変な事になるだろう。
もちろん、最低ラインの知識すらないなら、分かったふりをしてもしなくても、大変な事になる。
そして最低ラインの知識があるのかないのかを正確に知り、何を頼めるかを確かめるために相手がコミュニケーションの中であえて何かを教えないこともある。
その時、往々にして、分かったふりをして、大きな役割を投げられると、誰もがとても不幸な失敗か、あるいは苦労するプロジェクトになる。
誰も知らないところで、一夜漬けで勉強して、分かったふりをしていた事を短時間で深く理解できて何食わぬ顔で成功させられる覚悟があるならいいが、
そういうつもりがないなら、分からないことは、分からん、知らんといったほうが、誤解を生まなくていい。
分かるのか分からないのかもわからず、互いの力量を確認しあえなければ、結局協力関係を築けない。相手が成功させられる難易度のレンジが分からないから
頼みたいことが在っても投げられないということが起きるのだ。


 そこで上に行きたければ三つのものを高める必要がある。専門性と、この場特有の仕事の作法と、そして変化が起きたときにそれに適応できるための一般的な理解力の鍛錬だ。
失敗すれば、”光過敏室”へと送られ、最後の確認が行われる。
再教育可能なのか、外のもっと楽な世界のほうが、向いているのかどうかの再確認だ。
それは、ここは楽園ではなく、頂点を競い合うための、バトルロワイヤルの現場だからなのである。

 五十貝きみ子が、いつも口にする言葉があった。
「あなたは、どんな人生を送りたいですか? みんなの暮らしの中に、驚きと感動を生み出すために何ができるか、一緒に考えてみませんか」


 最初は誰もが口を開けて唖然としている。だが、その対話の中で、きみ子はいつも相手の意見を取り入れ、そして相手に今ままで考えたこともなかったような事を理解させ、
やがて相手は満足して喜々として彼女と運命を共にしようとする。


 そこには何かがあった。カリスマ性としか言いようがない何かがあった。
五十貝きみ子は、ただの薄幸の美人ではない。銀座のホステスになろうが、丸の内OLになろうが、芸能人になろうが、女子プロレスラーになろうが、
どんな世界で何になろうが、他人を巻き込み、その中心で活躍していくことにならざるを得ないような、不思議な性格が備わっている。
その一方では、どこか薄幸の苦労人のような雰囲気もある。


 その秘密を、スペッキヲは知りたがっていた。
そしてそれは、彼にとっては新しい世界へと導く虹の輝きを持った階段となるのかもしれなかった。

 ギガビット・エンタープライゼスの社員は、誰もが頭のいいレスラーか、あるいはキャバ嬢のような雰囲気をたたえた極めて競争的なメンバーが多かった。
そういう人間を選りすぐってはいないようだが、結果として生き残れるのが今はそういうタイプだったということなのだ。
 そこを抜け出した者がいうには、当時大株主の一角に、とある政治家の系列の団体が関与しているとか、その背後にある暴力団ともつながりが疑われて
別のルートで支援を受けているのだ、とか様々な噂が絶えなかったらしい。それが表に広まらないだけでなく、新社長の結婚式に現総理大臣が参列するなど
多種多様な期待とパワーをありとあらゆる方面に向かって伸ばしている。
 ニーチェのいうところの力への意志を健全に伸ばした結果として、レスラーとキャバ嬢たちが、金と権力と欲望を追求するアグレッシヴな社風が生まれたのであろうか。
結果として今でも業績を伸ばし続けている。
 そうであるがゆえにそこで戦うことは、やりがいを生み続けているのかもしれない。
五十貝きみ子は、そんな中で一見、異才を放つ存在ではあった。
その中枢に影響を与える存在でありながらも、きみ子には異才があった。

 ギガビット・エンタープライゼスで生き残れるかどうかを左右するもう一つの能力がある。
それは、見積能力である。
 ある目的があり、それを実現するための作業が存在する。
 その時、それを実現したい期日もまた存在する。
ここで、発生する作業にかかる工数がどれだけになるのかを正確に見積もれる能力が重要になる。
そしてそのためには、その作業が具体的にはどういう作業群から成り立っているのかを分解し、一つ一つの具体的な作業を取り出し、それらに掛かる所要時間を積み上げた
作業時間の合計がどれだけになるのかを計算するための、経験則の精度が重要になる。
どの練度の誰に振ると、その工数は何割増しになるのかなど個別の条件を踏まえた上で、万が一のバッファを積み、いったいどのくらいの規模のチームであれば
それだけの作業を期日までに仕上げられるだろうか?


 あるいはまた、個々のメンバー各自にも、自分に振られたタスクのそれぞれが、日々どの時点でどの状態まで来ている必要があり、そのために昨日、今日、明日は
どこまで達成できれていればオンスケなのかを見積もりながら自分自身の予定を調整していくスキルが求められる。
 -- 間に合わなくなっている状態で走り続けて、アラートも上げずに最後の最後に間に合わないけど帰りますといわれれば、また”光過敏室”の候補者が増えたことになるだけなのだ。
間に合わなければ、早い段階でアラートを上げれば、増員が可能だし要員を変化させることもできる。
間に合わなくなっているかどうかを早い段階で各自が判断できるために、各自にも見積能力が必要とされている。
その能力が高い人間は、重宝される。自分自身に無理のないワークライフバランスを獲得しながら、無理なく成果を積むこともできる。
日々の進捗管理は、そのために実施されている。
各自の見積能力の高さが前提になっている。このままでいいのかどうかを各自が判断でき、アラートを早くあげられることを前提に運営されている。
それを理解することも含め、ここでのサバイバル能力なのであった。

 ある時、人事部でちょっとした騒ぎが起こっていた。
 オリンピック出場経験者が応募してきたという。
 リレハンメルオリンピックのゴールドメダリスト。メディアではコメンテーターとしての経験もある。ファン層を持ったその人物は、
自分が広告塔としても、メディアへのコネクションの斡旋においても重要な利益をもたらすことができると褐色の肌に、白すぎる歯を光らせ訴えていた。


 確かに、オリンピック出場のための競争の勝者であり、世界を舞台にした戦いのトップである彼は、
他に類を見ないセルフマネジメントノウハウと、能力を明らかに持っていることが証明されている。


 だが、社長は警戒していた。彼は本当に、指示を聞くのだろうか? チームとしてまわりに溶け込んでやっていけるのだろうか?
彼が望んでいるポジションは、役員席ではなかった。広報部の一ポジションだという。
 そして彼は出社した。
 広報部は、しばらくの間彼をチヤホヤ面倒をみた。だが、しばらくして、彼が実際の業務に関わるようになりはじめると様子が変わってきた。


 彼、こと立花圭司は、ハンマー投げの世界トップであり、きらめく白い歯で夜の世界でもスターであった。
その朝、オフィスはシーンとしていた。誰もが静かに朝のメールチェックや、終業後におこった出来事のフォローなどを行い、朝のミーティングを待つ。
立花圭司は、その静けさをやや気にしていた。みんな元気が足りないな、と彼は捉えたらしいのだった。
ミーティングで、彼は大声を張り上げた。
「元気ですかー!!!!」
 チームのメンバーは、眉をしかめてその大声をスルーしながら、圭司に一日分の指示を投げた。
圭司はおう!と答えて張り切った。
それはチームのメンバーから見れば、大した業務とは言えなかった。だが圭司は、自分はオリンピックスターで、周りは一般人なので
自分はデキるはずだと思って一人でそれをこなそうという構えであった。
午前中が過ぎ、静岡真紀が進捗を確認した際、圭司は「何も問題がない」と断言した。
しかし真紀の目には、進捗が何もないことが分かった。何かに引っかかって、仕事が進んでいないのだろうか。
だが、本人は「何も問題がない」と言っているのだから、一人でやりたいのだろう。助けを差し伸べる余地がなくなった。


 昼休みとなって、一部のメンバーは切りのいいところまで仕事を進めると、案件のメンバー達と連れ立って昼飯を取った。
圭司は、自分が飯に誘われるだろう、まわりはみな自分のファンだ、と考えて待っていた。だが、そのまま昼休みが終わり、
圭司は顔を真っ赤にして震えているのだった。


 夕方になり、結局、圭司は与えられた仕事を何もこなせていないことが明らかになった。
「教えてくれないからだ!」と圭司は言った。「ここはブラック企業だ!」


 翌日、圭司の姿は消えた。
 どういう能力を持った、どんな人材が生き残れるのか。
それは難しい問題なのだった。

 -- 奴の名は、ひげもとタオ。
まさにバケモンみてえな野郎であった。
とんでもねえぜ。バビロニアから来た、勇者みたいなやつなんだぜ。マサカリを担いで、ツキノワグマを倒して出社するんだ。
ナイロビの蜂だぜ。凄腕さ。


 仕事の進め方というものは、人それぞれにスタイルがある。どういうやり方、どういう構え方をすべきだということは
中々はっきりとしたことは言えない。その人にしか出せない結果を出せるのであれば、そのほかのすべてがマイナスに振りきっていてさえいい、という人もいれば、
別に結果なんかなくて反面教師みたいな立ち回りを演じていたとしても、そういう役割を率先して担うものがいることが場に過剰にストレスを生まないことに貢献できるからいい、という人もいるだろう。
応援団みたいに戦う環境やら雰囲気やらを盛り立ててくれる人というのも重要になる。組織力は、鉄砲玉だけでは成り立たないのだ。


 優秀な人間とダメな人間がいるのではない。組織は内部の相対関係でみれば、常にその割合が一定になる。
当たり前のことである。偏差値70のエリートだけ集めれば、外からみれば全員偏差値70エリートであっても、そのエリートの内側だけで比較すれば、周りのエリートよりもさらに上という奴と、
エリート集団の中では比較的ビリという奴もいる。大事なことは他人との比較ではなく、自分自身が、出せる力の何割出し切れたかという事のほうである。
そして、上手くいかなかったら、つどつどやるべきことをやり、考えるべきことを考えて、学んで同じ失敗を何度も繰り返さないことだ。それが成長だ。


 案外どうだっていいのである。
長い目でみれば、スキルよりも楽しく組める仲間であることのほうが重要だとすら言ってしまえるときもあるのかもしれない。
まるで家族のように。長い時間を共にすればするほど、互いに分かり合えるものなのだとしたら、友人や同僚よりも、家族のほうが分かり合っているはずなのだろう。
不思議なことだ。
あらゆる修羅場を共に乗り越え、一番長い時間を共にしていながら家族はそんなに互いを深く理解しあっていないところもある。
ましてや親子は脳みその作りも似ているはずなのに、なんで深く理解し合えない部分があるのだろう。


 -- というようなことを、スペッキヲは考えていた。
満員電車のシートにもたれ、半分夢うつつになりながらぼんやりと物思いを巡らせていたのである。
先週の金曜日は久しぶりの朝帰りとなった。
とはいえ、花金の夜遊びに現をぬかして歓楽街から千鳥足で帰ったというわけではなかった。


 何がどうなっているのか釈然としない理由で、抱えている仕事の一つにかなり手こずったのであった。
どう考えてもそれは、簡単なシステム開発案件であった。条件さえ自由であれば、要件を満たすものを作るまでに一日も必要としないとスペッキヲは読んでいた。
少なくとも、打ち合わせ時にはそう思えた。
 だが着手してみると、そう自由にはいかないということが明らかになりはじめた。既存のシステム、既存の環境に合わせることを考えてみると
要件はまったく別様の複雑さを急にあらわにしはじめた。
もっとも初物の環境であってもスペッキヲは柔軟に吸収して対応できはする。だが、それは彼なりの独自のやり方になってしまう。
そうなるとまたまずい。スペッキヲがメンテするわけではないのだから、誰でもメンテ可能なように、あるいはそもそもメンテが簡単にできるように、その場のコーディング規則や品質水準に準拠していなければならない。
 結果として、開発が終わったかに思えた金曜日、ソースコードのレビューが入ってほとんど全面的な作り直しが必要なことが分かったのだった。
その作業は結局、終電を見送って始発が走り始める時刻まで続いた。
が、その結果として作業はスケジュールに追いついた。そのほかにも大小さまざまな無数の別のクライアントの案件を抱えていたものの、
今週は余裕をもってフィニッシュし、いい週末を迎えられそうだった。
 自分が有能な技術者なんじゃないか、とスペッキヲは思い始めた。もちろん、本当に有能なのは組んでくれている諸先輩たちではある。だが、自分は少なくとも
それほどまでには足手まといにはなっていないのではないか、とは思えた。
 駅前のすき屋でねぎ玉牛丼をサラダセットで頼み、食した。この店の店員は、来るたびに全員入れ替わっているような気がした。
そして以前とは違い、店の奥では店員たちの私語がひどくなっている気がした。かつて彼らは、人であることを忘れたかのように公私を切り分けてオペレーティヴでマニュアル的な言葉しか発しなかった。
今は、そこらの学生の話題を客の前でも気にせずおしゃべりしながら、時には常連客の悪口まで言いながら注文を出している。
そんなもんなのだろう。時代は少しずつゆるくなっている。だが俺はどうだろうか、とスペッキヲは思った。
遅い夕食を終え、家路に向かうと、急に便意を催してきた。
それと同時に、俺は優秀だ!という思いがスペッキヲの中に熱くこみ上げてきた。
便意がますます激しくなり、コンビニに駆け込み、「トイレ貸してください」と言って奥に向かった。
トイレは使用中だった。
すぐに踵を返し、コンビニを出た。足早に歩きながら、近場にトイレを借りられる別の場所があるかざっと記憶を巡らせてみる。
色々な店舗はある。だがトイレを貸してくれるかどうかが問題だ。スペッキヲの内面に激しい焦りがこみ上げてきた。


 その時、突然、ラーメン屋の戸がガラッと開いて何者かが現れた。
のれんの向こうで顔は見えない。
スペッキヲが見たのは、むき出しの白い脚だ。
驚いた。
黒いドレス。なぜかスリットが正面に来ていて、その切れ目がほとんどパンツにまで差し掛かりそうだ。
「ああっ!もうだめ!」と何者かが言った。ハスキーな30代女性の声だ。
ひどく酔っぱらっているのかもしれない。戸を開けたが、まっすぐ歩けずよろめいて脚が開いている。
スリットがなぜか正面に来ていて長くくねった健康的な肉付きの白く生々しいナマ脚がのれんから通りに向かってはみ出ているのだ。
それは挑発的な流線形を描いてスペッキヲを試しているかに思えた。デリケートで感じやすい部分をさらけ出し、誘いかけて彼をおびき出そうとでもいうかのように。

 スペッキヲは歩き続ける。
便意がカオティックな状況になってきた。
頭が混乱し、便意はもうコントロールを超えた。
足早にあるけばあるくほど、振動が腹部を刺激し、肛門を内側から突き破ろうという圧力が高まる。
突然、土砂降りの大雨が降ってきた。


 ガストだ!ガストだ!
スペッキヲは今まで通らなかった通りに、今まで使ったことのないガストがあることを思い出し、赤信号を無視して歩道を渡った。
後ろからさっきの中年女性が「ああん!ああああん!」と叫んでいる声がした。訴えかけているのだ。何かが起こっているのだ。後ろで一体なにが起きているというのか。
山間部から発生したオークの群れが、中年女性の白いナマ脚をおそったとでも、いうのだろうか。
だが振り返っている場合ではない。
 しかしさっきの生々しい白い脚が脳裏にフラッシュバックしてしまう。次の瞬間、ついに便意の圧力がリミッターをぶち破り、スペッキヲの肛門が爆発的に痙攣した。
ホカホカとした熱気が尻と両足に広がっていく。
スペッキヲは、ウンコを漏らしながら足早に歩き続けた。
降りしきる大災害のような大雨。頭は真っ白になり、今まで入ったこともなかった裏路地を一心不乱に歩き続けた。その姿は、まるで競走馬のようだった。


 あの中年女性は、知らない天井の下で見知らぬ男に抱かれて目を覚ます。
スペッキヲの脳裏の真っ白さが、巨大な白いナマ脚のようにゆっくりとくねりながら交差していく。
その時、スペッキヲは見知らぬ男である自分に気がついた。ウンコにまみれながら、すべてを放り出して謎の中年女性と求め合っている自分に気がついた。その名前すらも知らない中年の女性と。


 -- ウンコはもうあふれ出したのだ。もはやどうなってもいいのだ --
スペッキヲの肉棒が爆発的に痙攣した。
「ああん!ああああん!」
中年女性は、激しいゾクゾクとした快感を、彼に訴えかけ、さらなる退廃へと彼を求め続ける。
白いブラックホールが彼の心を、ここではないどこかへと拉致した。そして彼は、白く透明な何者かになっている自分に気がついた。

 翌朝目が覚めた時、すべてがまるで嘘であったかのように気分は萎えていた。
記憶だけがあり、しかし自分はどこにもいけないままいつもの日常の中に目を覚ました、とスペッキヲは思った。
あの中年女性はどこの誰なのか。


 それはどうでもよくなってきた。愛車のジープに乗り、ユニクロに向かった。ウンコを漏らした下着もズボンも、捨てたのでその分買い替えるのだ。
ユニクロのズボンは安いというよりもポケットが大きいのでいい。大概のジーンズはポケットが小さすぎて大きな財布は入らない。
上着を着る季節の間はいいが、シャツだけの季節になったらやはりポケットが小さいズボンはつかえない、とスペッキヲは思っていた。
深く考えたわけではないが、昔からなんとなくそう思っていた。
ユニクロは不思議だ。あれだけ巨大になり、いろいろなものを売っていて売り上げも大きいのだろうが
街にユニクロを着ている人間は、自分しかいないようだなとスペッキヲは思った。
皆、なにがしかのこだわりをもって、もっと主張したファッションで身を飾る。自分にふさわしい格を意識しているのだろう。


 そういう格は、自分の場合は底辺だな、とスペッキヲは思った。
別にユニクロ、しまむらでいい。高いものが買えないほど金がないわけではないが、自分が選んだ商品によって自分がどのような人間かをそこで値踏みされてしまうのが面倒に思えて、
何もメッセージ性のない無印的なものを選ぶことにしているだけだった。
そして愛車のジープは洗車しない。
そういう用途のクルマならいらないと思っていた。走ればいいのだし、頑丈でいてくれればいい。だから時計もG-SHOCKでよく、デジタルとアナログが両方ついているシリーズのものと
人生の半分ぐらいずっと共にしている。


 帰り際に100均でクリアファイルをつっこんでおける薄いA4ワイドケースを買った。
大雨に打たれて鞄の中に水が入っても、フォルダからはみ出た部分が水でフニャフニャにならないように一式ケースにいれてケースごと鞄にいれることにした。


 そこまでやっておけば、もう帰り際にウンコが漏れそうになりトイレというトイレがふさがって大雨に振りこめられても
もう問題はないだろう。失敗からは常に何かを学び、同じことにならないための打ち手が打てるなら常に打っておかねばならないのだ、とスペッキヲは思っている。

 社長がメディアなどへの露出が多い会社では、メディアなどで親交が生まれた他業界の大物から社長へ直接声がかかる"社長案件"というものが存在する。
サイコキネティック痴漢技術総合研究所はメディアなどへの露出はほぼ皆無であったが、
倉橋総一郎の出自や母体との関係性から、さまざまな業界からの直接の声がけに応じることもままあった。


 そういった案件は、総一郎自身がマネジメントを取り、自分自身の責任においてクライアントの業績にまでコミットしていく。
依頼をさばいて金を受け取ることではなく、依頼の前提にある課題に対して、その依頼内容が答えになっているかどうかから見直していくこともある。
最終的には、クライアントが期待しているものがなんなのか、そこに自分自身が関わることでその期待や希望が実現されるかどうか、がビジネスなのであって
ものを売って金を得ることがビジネスなのではない、と総一郎は考えるからであった。


 そうした案件のいくつかを、いつのまにかギガビット・エンタープライゼスの一員となっていたスペッキヲが
直接指名で請けるのだった。極めて例外的な取引であり、双方の組織上の内規に設けられた例外規定によって可能になっている。


 そんなわけでスペッキヲは、割とまともなマネジメントノウハウで運用された大がかりな案件をこなしながら、割とのんびりと暮らしているのだった。
品川駅からはシャトルバスが出ているが、利用するのは帰りぐらいのもので、行きは近場の小さな駅を利用しそこからのんびり散歩している。
そのビルはギガビット・エンタープライゼスともう一社、別の大手家電メーカーが入っていた。テレビ局のスタジオがそばにあるが、
芸能人が歩いていることはまずない。あったとしても、興味がないので気がつかないかもしれない。


 朝、割とぎりぎりの時間に出社し、ざっとメールチェックを済ませながら、今日一日の予定に変更が必要ないかどうかを確認する。
ミーティングでは昨日の朝に共有した予定が未達だったか過達だったのかと、それを受けての今日の予定とを共有し合う。
無理があれば、予定やアサイン状況を組み替えるための調整を行うわけだった。


 それ以外のことについては、ほとんど互いに干渉はなかった。各々自分のやり方を持っていたし、ベッタリとした人間関係を強要されることもなかった。
メンバー全員で飯を食い一緒に帰らなければならないような会社も、あるにはある。
そうすることがマネジメントだと考える人々もいるにはいる。そういう意味では、ここはむしろ各自の自律と裁量にゆだねられているものが大きい。


 リーダーである五十嵐了司は、信頼できる人物だなとスペッキヲは思っている。
共同通信社にいたころの上司にも似ているが、よくよく関わってみるともっと違うタイプの魅力を持っている。
その魅力は、たたずまいであったり、姿勢であったり、風格であったり、言葉と本人の在り方とがガッチリと一致した安定感のようなものであったり、印象のようなものの中に現れている。
肉体と精神の軸にある骨組みが、太く稠密で、なおかつ美しく整っているのだ。
ただまっすぐにまっとうなことを堂々とゆっくりと執り行っていくだけでも、何の隙も生まれない正統派のエリートだという感じを受けた。
そうであるがゆえに、ちょっとしたアドバイスにも強いインパクトと説得力がある。
そしてあらゆる人間に対して、影響を与える存在感がある。
彼がいるかいないかで、場の空気すら変わっていくのだ。
 そういう人間を、そういう責任感を持ったリーダーを、久しぶりにみた気がするな、とスペッキヲは思う。
もちろん、飲みの場では、そんな五十嵐もややヌケたところを露わにするのだが、それも含めて、立派な人物だと感じていた。
自分はそういう風にはなれないし、真似しても似合わない。
自分には別の生き方、今の生き方の延長上で、自分らしさを磨いていくのだ。

 倉橋総一郎からの特命案件をさばく傍らで、スペッキヲはギガビット・エンタープライゼスとしての案件にも関わっている。
ギガビット・エンタープライゼスは優秀なメンバーがそろった組織だが、その中でスペッキヲが自分自身の存在価値を証明するために
各種の案件をつつがなくこなしていく必要があった。


 スペッキヲは基本的には、怠惰な人間ではあるのだが、社の中で安定したポジション取りをし、安寧をむさぼるためには
一定の成果をコンスタントに上げていく必要がある。その過程で、トラブルになりそうな案件を、うまく地雷原を察知しながら綱渡りによって
そつなく着地させていければ、自然に信頼も積み重ねられていくのだった。
世の中には、地雷原にむかって全力で猛ダッシュするだけのスマートではない仕事術も存在する。
誰もがすべてを把握できているとは言えない状況の中で、自分以外の誰かの責任を叫び続けながら、チームを疲弊させ分裂させ
プロジェクトを遅延させていくような仕事術が現に存在する。
そういうやり方は、洗練された仕事術とは言えない気がした。
あらかじめクリティカルパスを洗い出し、それに対して手を打ち、その見落としについては、自分なりに対処した上で報告に差し込んでいく。
誰かの責任を叫ぶよりも、ほかの誰かの貢献をみつけて評価し合っていくことのほうが、各自のやりがいを見出せる。
仕事をブラックにしていくのは、案外、そういう自分自身の考え方の間違いからくる見当はずれの責任のなすり合いだったりするものだとスペッキヲは考えている。
そしてスペッキヲは、そういう問題が起こりそうな箇所をサクサク巻き取っていくことで面倒ごとが起こらないように進めていくことを
自分の才能のひとつだととらえてもいた。
 もちろん、独断で行動しすぎるにはまだ経験が足りないところもある。
そういう場合に、先輩らに丸投げするのではなく、このやり方でどうだろうかという提案をレビューしてもらう形をとって、自分の思い込みを取り払うことも重要だった。
確信をもって失敗していたのでは、地雷原に飛び込むやり方と何も違いはない。もちろん、このやり方でやりますねといってはっきりとOKを出すほど
諸先輩らもスペッキヲを信頼していない時期もあった。
失敗した上で、スペッキヲが「あの人がこういったからだ」などと騒ぎ立てるタイプかもしれないと思われていた時期もあった。
が、スペッキヲは基本的には、何から何まで大抵のことを、自分の成果だと思う反面、失敗すればすべて自分の責任だと思うくらいには責任感の塊だということが
理解されていったのだった。

 その謎めいた美女は、8時40分に必ず同じ場所に現れるのだった。
もちろん、その時、スペッキヲもまた同じ時刻に同じ場所にいる。


 つまりのところは、その美女も、あの界隈のどこかの組織に所属しているという訳なのだろうか。
そしてタイムカードを定時前に切るためにあの場所を通るのだろうか。


 スペッキヲはもう何百回とその美女とすれ違っている。
行きかう群衆の荒波の中でも大抵その美女は見分けられる。キリリとしたオーラを放っている朝もあれば、
クタクタになっている朝もある。だが、常にその唇は半開きなのだった。


 様々な疑問が浮かんでは消えた。小鹿のような美しい小顔だった。だが、スラリと伸びた脚線美は
ややだらしなくムッチリとした肉感を放っていた。常に黒いストッキングに覆われている。


 最初は、朝帰りの飲み屋の店員だろうかと思っていたが、あまりにも時間に正確すぎた。
スーツを着ているわけではない。かなり自由な服装をしている。WEB業界か、ゲーム業界か、ファッション業界か
何かそういう関係の仕事なのだろうか?


 それにしてもなぜ、いつも唇を半開きにしているのだろう。
そしてどこか真剣な表情なのだろう。急いでいるだ。常に息切れを起こしているのだ。
彼女はまさに、小鹿のように慌てているのだ。

 その謎めいた青年は、昼下がりの郵便受けに時々現れているようだ。
タワーの郵便受けは、各フロア用の郵便受けが何十個、あるいは何百個も存在する。
そこへの大量の郵便物の仕分けは、一時間ぐらいはかかっているのかもしれない。


 スペッキヲは、喫煙所の帰りに自販機でミニッツメイドを買ってビタミンを補給するのを習慣にしているが、
その時、一定の割合で、奇妙な叫び声を耳にする。


「色白のおっちゃ~ん!(途中判別不能)しずるはげひんだからなあ~」というような叫びだ。


 青年は独り言を大きな声で叫びながら、郵便物を仕分けている。
通りすがりに様子をみると、青年は黒いシャツに白いエプロンのような前掛けをして、知性的な眼鏡をしていた。
が、言っていることだけは、明らかにイカレているようだった。


 彼が現れると、その日の仕事は、たいていうまくいく。
だから彼を天使だと考えることにしていた。
天使の声が、今日も聞こえる。

 ギガビット・エンタープライゼスに、緊急の問い合わせが入った。
 航空自衛隊横田基地にて、試験運用中の偵察車両36体が突然行方不明になったという。
ギガビット・エンタープライゼスが開発し防衛省に納品された車両で、全方位型の通信傍受とレーダー解析のための新システム(LRスタグナント)を搭載した特殊な装甲車であった。


「通信衛星を使って全車両のステータスを管理していると聞いている。足取りはおえないだろうか」
 と幕僚長からの依頼があった。


「可能ですよ」とスペッキヲは答えた。
 30分後、防衛省のヘッドクォーターの大型スクリーンが、それまでの車両ステータスの監視用のワールドマップではなく、
全車両の位置情報のワールドマップに切り替わった。
どよめきが起きたのは、太平洋上に存在することになっている車両が丁度36体のせいだけではなかった。


「ありがとう。車両は密売人によって盗まれ、太平洋上を移動中のようだ。それにしても御社の対応は速いな。
 ......我々の組織とは大違いのようだ。また連絡する。今回の件の借りは返すよ」


 ......だそうだ。五十嵐が振り返る。
 スペッキヲは、はい了解。と特に感慨もなく答えた。当たり前のことを当たり前にやっているだけで
ほかの世界では感謝されることがある。それは分かった。だが、本当はそれではダメで、あらゆる世界のそれぞれの良さに対して
互いに追いつきあっていけるようにはなっていかないものなのだろうか。
 まあそれは、行く行くは何とか変えていく道を探れるものなのかもしれない。
自分はそれとは別で、やるべき別のことをやるだけだった。
あの人なら、答えを知っているのかもしれない。スペッキヲは、倉橋総一郎をふと思った。

 喫煙所で休憩をとっていると、ケータイに着信があった。
「すぐに戻れ。緊急事態だ」


 緊急事態? 一体どんな緊急事態が存在するのだろう? この平和な世の中に?


 タバコの火を消し、エレベーターに乗る。13基あるエレベーターのどれもが妙にまどろっこしい動きだ。
乗り込み、光彩認証を抜けオフィスに戻った。


「テロが起きているようだ。防衛省の管轄のデータセンターに何者かが侵入、立てこもっている」
「......。一体、どういうことです? 我々は警察でもなければ特殊部隊でもないですよ」
「よく聞いてくれ、市ヶ谷の地下にある地下施設で我々は防衛省の軍事システムの一部を運用している。そのことは社内でも
 関係のない部署には開示されていない。それを知るものですら、どこまでが本当なのか分からないような
 尾ひれのついた情報しか知らされない。漏洩したとき、その尾ひれの部分で漏洩元を割り出せるようにな」


 五十嵐は、声を潜めてスペッキヲに言う。内部の状況はシステムにログが残っている。それを運営しているのは我々だ。
状況を把握して、自衛隊に伝える。そして特殊部隊が状況を打開するのだ、と。


 五十嵐が短いコマンドを叩くと、スペッキヲの画面に見慣れないGUIが起動した。だが、裏側はLinuxベースのようだ。
「あとは任せる。おまえの分野だ」


 スペッキヲは、まずroot以下で絶え間なく更新されているファイルの一覧だけを絞り込んだ。
ログがあるならその中に含まれる。そしてless -fでそれら複数のファイルをざっと眺めた。
セキュリティ界隈でいうところの目grepでデータを自分の目で瞬時に見分ける。
なるほど、入退管理、監視カメラ、鍵の貸し出し管理などのログがある。つなぎ合わせれば、ログだけで誰がどこにいるのか
たどれそうだ。


 入館証ID「00XF87EFJ」は、13:57分に入館しその時点で免許証を受付に提示した上で正面のゲートのロックをその入館証で開錠している。
14:32分に同フロアの備品カウンターへのゲートを開錠、9F753のラックキーを14:42分に借り出し、エレベーターが3分後に動いて9Fに止まった。
そしてサーバフロアのゲートが同じIDカードで2分後に開錠。そこから32時間たった今も部屋を出たログはない。
このID以外のすべてのIDは24時間以内に退館手続きに至ったログがある。だが、問題は、立てこもりが起きているのは9Fサーバフロアではないのだった。
同刻に9Fサーバフロアに出入りした者すべてを洗う必要がある。
入れ替わって出られる可能性がある。その為にはそれぞれのIDカードがかざされた時点での監視カメラの映像から、入った時点と出た時点で
別人になっているものがいないかどうかを確認する必要がある。
幸い、映像はオプションで時刻を入力すればその部分まで再生が飛ぶようだ。簡単なシェルプログラムを書いて、出入り時刻での映像の一覧を表示させる。


 入館証ではなく社員証で出入りしたスタッフが、出入り時に別人になっていた。
彼は、前日も同じ時刻に出入りしているが前日と異なり、その奥の機械室へ向かうことなく別人となって消えていた。


 ここまでのデータをそろえて、一旦簡単な状況の解釈を五十嵐に共有した。
五十嵐はそれを整理して自衛隊に連絡する。
定時になって戻ってこないスタッフがいても、何とも思わない組織なのか?という疑問は残った。
だが、それは向こうの問題だ。彼か、あるいは彼に成り代わった何者かが、マスターキーを握って変電室に立てこもっている。
そこにはセンターの受電の系統の根幹を握る52R1と52R2の切り替えを行う真空遮断器がある。
それを引っ張り左にひねればデータセンターのすべての電源供給が途絶え、そこに依存した全世界規模のネットワークが停止するだろう。
そしてこれは外交機密が大きく絡んだ軍事ネットワークの心臓部なのだ。

 事は利益がどうのこうのではなく国益なり世界平和の問題になってきているようだな、とスペッキヲはぼんやりと思った。
「引き続き、調査を進めてくれ、可能なら入館手続き時点で受付で登録されたこの免許証の情報も照会しろ」


 調査を続けていく中で厄介な問題が無数に出てきた。
 どうやらセンター内のログを追うだけでは事は追いきれない。TAKIGENの200番と呼ばれるラックキーを使っているラックは
キーが貸し出されてもいないのに開錠を繰り返していた。貸し出されているのは600番台だ。600番をさすことで200番は開錠可能らしいのだ。
驚くべきことに、分電盤の鍵の一部がTAKIGENの200番で施錠されている。


 ある種のラックキーを借り出すことで、低圧の分電盤はアクセス可能になってしまうという意味だ。それを知っているものだけが気づくことなのかもしれない。


 とにかく、借り出されたラックキーだけでは、本当にアクセスした先がラックなのか分電盤なのかすら判別できない。ここはやはり監視カメラの映像データと
IDカードのIDとの時刻の一致だけが頼りになる。しかし、監視カメラには死角になっている箇所がかなりあった。
確実に捉えられているのはゲートの入口と出口だけだ。そこだけは押さえられる。だが、サーバフロアの全エリアを映像でカバーしきれていない。
中で本当に起きたことは一部しか分からない。


「立てこもりに対応する前に、今サーバルームのどこかにいるはずの、戻ってきていないスタッフを探してください」
 とスペッキヲは答えた。彼が何を見たかが手掛かりになるかどうかは分からない。そもそも彼は生きているかどうかも分からない。


 その時、ヘッドクォーターからの映像通信に変化があった。
立てこもり犯が接触してきたようだった。
 ヘッドクォーターには防衛大臣も詰めていた。
 映像は目出し帽の男を映し出している。だが、本人が気づいているのかいないのか、音声が小さすぎてとぎれとぎれだ。
外部への電波遮断が効いている施設内からでは、通信が難しいのだろう。とりあえず男は名乗っていた。Punishmanと。
「Punishmanさん、要求はなんですか!」

 やれやれ、......と倉橋総一郎は溜息を洩らした。国際電話で呼びつけられたと思ったら、航空自衛隊の輸送機に拉致され招集されたのだ。
「よりによって日本でテロとは」
 工藤怜の胸には防弾チョッキが窮屈すぎるようだ。
「市ヶ谷案件ということは、彼も関わっているんだろう」
 総一郎は一瞬、工藤怜とスペッキヲが姉弟であることを思い出す。
そして防衛省は、総一郎の一族の財閥と根元までズブズブの関係がある。
「それで、テロ実行犯の目的がはっきりしないとはどういうことです」


「まあ目的は、手段からも大まかには絞り込める。市ヶ谷の情報ネットワークを無力化すれば、内閣府と防衛省、自衛隊との秘匿通信での指揮系統が断絶される。
 そして、例えばミサイル迎撃システムなどの各種連携機能がダウンするだろう」
「開戦が目的だと?」
「それは、前時代的だな。おそらく相手の目的は圧力だろう。開戦と同時に、日本が消滅しかねない状況を生み出せる間に、何らかの取引が行われるかもしれない。
 今、東京に核ミサイルが発射されたとして、我々が対応できる方法がなくなっている可能性がある。東京と大阪に核が着弾すれば
 日本は再起不能になる構造的なリスクを見破ったのかもな。......かつてアメリカが二発の原爆を、東京と大阪ではなく広島と長崎を選んで落とした意図とは裏腹に」


「ということは」
「少なくとも相手は、核保有国か、核保有国の息がかかったどこかの国だ。そして、恐らくは大して民主化されていない軍事的な政権によって支配されている」

 港区の虎ノ門交差点から千代田区の日比谷交差点までの約1.5kmの地下にライフラインネットワークを整備するためのトンネル工事。
その建築現場を一般公開する実験は、かつて東京ジオサイトプロジェクトとしてその名を知られた。
地底に設けられた音楽堂。その非日常的な祝祭の裏側で、もうひとつのジオサイトは準備されてきた。


 市ヶ谷の地下ネットワーク構造体、ジオセントラルとそれは呼ばれている。
 ジオセントラルの存在は、世界中の諜報機関によって早い段階で捕捉され、東京メトロ丸の内線のトンネルのどこかに入口が設けられていると言われていた。
そしてそれが四ツ谷駅周辺であることまでは絞り込まれていた。


 -- 様々な外郭団体を経由して防衛省の"裏"通信インフラを一手に集約した、
”戦時中クラス”の地下データセンター、ジオセントラル。


 ”自分の本業は一体何なんだ”と工藤怜は思っていた。手にしているのは、M16自動小銃。
暗視ゴーグルを設置し、足音を殺してトンネルの水たまりの中を進む。
着用しているワイアレスヘッドセットは、収集したデータを地上に待機する総一郎の端末にリアルタイム送信し続けていた。
総一郎は見取り図上の状況を瞬時に判断しながら、指示を返してくる。
 まずいことに、センター側はジオセントラル内の全貌が分かるデータの提示をこの期に及んでも渋っていた。
内部に入ってからは、見取り図は黒い闇になる。そこからは暗視ゴーグルが収集した3次元情報を元に、周辺の地図をリアルタイムで起こしていく事になる。
そこからは敵のテリトリー。不完全情報のフォグウォーだ。形勢は一気に不確定になる。


 立てこもり犯の背後関係からは、複数のメンバーが待ち受けている可能性も拭い去れなかった。
怜は、薄明りの中に”非常口”の緑のランプを確認した。そのランプは電球が切れかかって明滅している。そのランプが光る水滴を暗い水たまりに落とすその向こうに赤く錆びついた古いドアがある。
地下鉄トンネル奥深くの非常口だった。


 それは、日常ならざる非日常の世界への入口であった。

 その扉を開けた瞬間、工藤怜の耳は、常ならざる音を聞き分けた。
超音波的な周期を持った何かしらのノイズだ。
 辺りは闇に包まれ、暗視ゴーグルは黒い闇の中に何かが緑色に光っているのを捉える。地下牢に似た景色をかすかに捉えていた。
その奥に果てしない黒い奥行がある。天井も床もみえない。
すでに怜は、重力を感じない事に気がついた。


 何かがそこには広がっている。その何かは、遠い記憶の中の別の場所につながっている気がして、怜は歩を進めた。
怜、待つんだ、慎重になれ。


 総一郎の声が届かなくなっている。無音に近い何かがそれをかき消してしまったのだろうか。
怜の心には、夕暮れ時の貸し倉庫の裏側の錆びついた非常階段が見えた。それはぐるぐると螺旋を描きながら、影から影をつないでいた。
その時怜の心には孤独が去来したのだった。風を感じた。その風が怜の思いをむなしい砂漠へと連れていくかのようだ。
砂漠はノイズの砂嵐を竜巻のように巻き上げながら、ゲシュタルト崩壊の次元へと精神を蝕んでいく。
 見たこともない青い鳥が、木の上に止まってこちらを睨んでいる。
鳥はまるでガラパゴスに生息する生き物の一種のように、毒々しい色で何事かの警告を発している。
横殴りの強い風が叩きつけて、地面から塔がせり出していった。塔は大木のように枝分かれしながら、棘のように天空を目指して広がっていく。
怜は急に予感を感じて後ずさった。
 地面がうなっているのだ。
そしてそのうなりはやがて強いうねりとなって大地を分断する。


 戻れ、その場所は何かがおかしいと総一郎が叫んでいる。しかし、入口がすでに消滅していた。
足場のない空間を怜は落下している。その無重力の自由落下の中に、迷宮が広がっている。
その迷宮はなぜか、怜の古い記憶の中のひとつの場所を思い起こさせた。


 自分はこの場所を知っているのだ。
工藤怜は、その場所を知っているのだ。

 ひび割れた乾いた灰色の大地と黒い空だけが広がっている。その景色はどこか月面のようにも見えた。
あらゆる生命の気配がない。自分すらも、存在しない。


 光が滝のように空間を跳ねている。虹がすべてを葬りさっていったのだと怜はなぜか思う。
世界は一斉に虹に包まれ、人々は狂乱とともに昇天したのだろうと怜はなぜか思う。
 すべてが終わった歴史の最果てのその向こう側に、この灰色の荒野が存在しているのだ。
誰からも顧みられることのなかった、時間の終わりのその向こう側に。


 世界はその寸前に終わっていたのだ。宇宙が消えた後に、なぜか果てしない荒野だけがどうやってか存在を残されている。
新しい始まりが準備されているようには見えない。
すべては忘れ去られ打ち捨てられた後に、カビのようにもう一度ゼロから自然に再生していくのだろうか。
果てしない歴史がもう一度繰り返されるのだろうか。
 無がそこに吹き荒れていた。無は竜巻のように渦巻きながら、目に見えぬ何かを一点に収斂させようとしては、失敗しかき消えていった。


 時間の流れが入れ替わり、急に辺りは森に包まれた大地になる。そこでは物体は、反発力を持って弾きあっていた。
もう一つの別の法則によって、終わらない宇宙が再構成されているかのように思えた。


  --今度こそは。


 確かに何かの意志がそこには働いている。
そこには何か、永遠を生み出すことに失敗した創造主の試行錯誤の営みのようなものがあるようにさえ思えた。


 空間には細かい鋲が穿たれ、すべての粒子が鎖につながれて支配されている。まるで、何かの実現に向かって、
全体の調和が破られぬためにそれが必要であったかのようだ。


 だが時間はそこで、急にビデオテープのように巻き戻り始めた。

 見たこともない、巨大な花が咲いていた。
 花は眼前でみるみる内に巨大な花弁を広げていき、傍らにいる人間が見る見るうちに老衰していく。
まるで人間が植物になり花が動物になったかのように思えた。
人が枯れ草のように枯れていく。その精気も体力も枯れ衰えて腐っていく隣で、巨大な緑がまるで巨大なビルのようにそびえ、
大空に向かって太陽のような花びらを広げているのだ。
 子供たちは、まるで何かの伝染病にでもかかったかのように、卑猥な言葉を連呼してクルクルと目を回している。
アヘアヘと、涎を垂らしながら少年時代を迎えているのだ。


 そこに、加納俊介は立っていた。
 加納俊介についての記憶を、工藤怜は自分の記憶から抹消したはずだった。
アメリカ西海岸のプライベートクリニックにおける一種の洗脳によって、その記憶を”消去”したはずだった。


 だが、異常な空間のゆがみの中に、加納俊介は再び甦ったのだ。俊介について考える事は、怜に憤りをもたらした。
怜にとって俊介はまったく意のままにならない存在だったからだ。8年前のあの日、俊介は失踪した。
怜にとってそれは待ち望んだ結末だったはずだった。だが、それからの2年間、怜は俊介の記憶に苦悶しつづけ、さまざまな妄想にかられて苦しんだ。
俊介は、自分を使い捨ての雑巾のように使い捨てたのだと怜は考えようとしたのだ。
記憶の中では怜は、俊介になんどもレイプされ、甘い言葉と暴力とを交互に与えられ、何度も堕胎を繰り返していたことになっていた。
だが、それがどこまでが事実だったのか、分からなくなっていった。
そもそも、怜は俊介とどのような関係があるのか、その証拠も残っていなかった。
俊介に犯され、唇を吸われ、心を意のままにコントロールされて孕まされた。
その時、怜は運動ニューロンを支配され、副交感神経を刺激されて個体ではなく群体であるかのように俊介と連動し、精神はまるで自分の意のままにならないものであるかのように奔放に操られた。
しかしそれは本当の記憶だったのだろうか?


 目の前に俊介はいる。それは怜にとって、願望の副次作用として失った自分自身の姿のように思える。
俊介は、甘い微笑みを浮かべながら怜に手を差し伸べた。
 全身が興奮し、知らず知らずのうちに体液が染み出してくる、と怜は思った。

 俊介の鼻は天狗のように長く変形していた。
 怜は震えながらも、なすがままに力なくへたり込んでしまう。
俊介という人物が、本当にこんな人物だったのだろうか。
消された記憶のかすかな記憶をたどっても、その手掛かりは虚空に途切れてしまう。


 俊介は怜を横たえ、そしてその股座に顔をうずめた。天狗のような鼻が、怜の局部をなぞる。
その鼻はパンティを食い破り、怜の内側を突こうとしている。


 ”怜”


 空がうねって積乱雲の隙間からカーテンのようなオーロラが光りはじめる。
俊介は、倉橋総一郎になってしまっていた。
 総一郎が、怜の股座をしゃぶしゃぶとしゃぶり、マンゴーフルーツをかじるようにその肢体を欲しいままにしている。
すぐそばで、武装ヘリによる絨毯爆撃が起きている。村が、街が、赤く染まって黒煙に包まれていく。
竹藪の中へ若い男女が駆け込んでいくが、その先に待つのは、ナイフ戦を得意とする対ゲリラ部隊だ。
 怜は、星座の形を見上げて、空にむかってその形をなぞった。その間、真っ赤に燃えた天狗の鼻が、彼女の裂け目を執拗に突き、探り続けていた。

 その黒光りする禍々しい筐体が姿を現したのはまさにその時だった。
 急に、俊介=総一郎のチラチラとした舌先の突端が、空間の裂け目に触れ、
爆発が起きたのだ。
 その爆発が、虚数空間の重力を再び反転させ、眼前に屹立してきたのがその黒光りする巨大な鉄塊だった。
それは、無数の死体を縛りつける鉄のケーブルと、赤い粘液がドクドクと流れる管を張り巡らせた、がれきの山のように見えた。
交通事故現場のようなすべてが激しくぶつかり合って潰れて変形した黒い鉄塊を一目見た時、
怜は、深い哀れみのような感慨に囚われた。


 なんてひどい物体なんだろう。この世の呪縛のすべてを全部混ぜ合わせたような、呪いの鉄くず。
人はそれをラプラスの悪魔と呼び、歴史を操る全能の神の脳細胞だと総一郎は言う。


 血の海に浮かんだ、死体をつなぎ合わせた鉄塊でしかないように、怜には思えた。
そしてその表面には、仰々しいプラチナのプレートが刻まれた文字を強調している。”REI”とそこに記してあった。


「動くな!」
 何者かがそこにいた。
彼が、このジオセントラルを人質に、日本政府を強請っている人物だ。
その顔を見、工藤怜は再び凍り付いた。

 見れば、その相手は、工藤怜と瓜二つの相貌をしていた。
 それどころか、黒い鉄塊に管で結び付けられた無数の死体のどれもが、怜と同じ顔をした死体だった。
一瞬、重力がどうかなってしまったかのように怜は立っていられなくなった。


 --なんだこれは、どうして総一郎は、こんな場所に自分を潜入させた。


 ヘッドセットの通信は、まるで機能を失ったように無反応だ。その向こうに、総一郎の気配はない。
すべてがあらかじめ予定されていたシナリオであったかのようだ。


 総一郎は、工藤怜のクローンを大量に生成し、そしてそこから自分を作り出そうとしていたのではないのか。
なんの目的があるのか、分からない。だが、目の前のもう一人の自分の動機は分かった。
これを、この異常な実験を、破壊することが目的なのだろう。
総一郎の正気の裏側に隠れた異常な欲動を、破壊することだけが”自分たち”の目的なのだ --。


「怜、どうした、分かってくれたか」
 総一郎が現れた。
 その顔は、まるで天井そのもののように大きく怜に上からのしかかってくる。
「分からない。どうしてこんなことを」
「今にわかる。この私の、君への思いの強さが」


 怜は、怯えていた。
 どんな言葉も、総一郎には伝わらない。総一郎は、幻を相手に語っているのだ。
その幻は、自分ではなく、自分に似た、彼の中の何かだ。
瞬間的に孤独を感じた。彼は、私にこだわっていながらも、私ではなく、自分自身の中の私ではない何か、
自分の思い通りになる何かだけを相手に、空想の中で独り言をつぶやいているだけでしかない。


 いつからそうだったのか、初めからそうだったのか。
怜は引き金に手を添えた。
総一郎を、救わなければならないのだと怜は思った。これは救済なのだ。

 怜が引き金を絞ったその瞬間、その総一郎の顔 -- それは天井そのものの様に巨大で彼女に覆いかぶさってくる何かのようであった -- が、
突然、まるで壁画の中から描かれた人物が現実界へとせり出してくるかのように、"それ"を縛っていた周囲の背景の破片を周囲にまき散らしながら姿を現した。


 それは、それまで怜が見ていたその空間とは裏腹に、そばにあったラプラスの悪魔、つまりはその鉄塊や、その奥に続く回廊、錆びれた螺旋階段、
そして天井からぶら下がった非常灯や赤い粘液をドクドクと中継する透明なポンプ類やホースなどすべて混然一体に分かちがたく混交した、巨大で歪な生命体であった。


 自分自身を取り囲むその空間自体が、一つの歪な生命体だったのだ。そしてそれは総一郎の巨大な顔面をその一部として結合した鋼鉄の奇形獣のようであった。


 銃は、まったく無力に思われた。この宇宙そのものが、一つの巨大な総一郎であって、ここから脱出しなければ生き延びることはできないんだ、と怜は直感した。
天井も、床も、はるか彼方の闇の向こうの壁も含め、すべてがこの獣の体だ。
一体、どこへ逃げ延びることができるというのか。


 ”怜”


 鉄塊の中から、青白い光が何もない空間を照らし、その光が巨大な手首のような形を結びながら、怜を捉えようとしている。
怜は走った。
 とにかく、あの機械類から少しでも距離を開けなければならない。床にばら撒かれていた無数の管やホースが、急に芋虫のようにうごめき始め、
走る怜の脚を捉え巻き付こうと絡む。
 それを振りほどきながら、怜は走った。転びかけながら、何もない闇に向かって走り続けた。

 目の前に、突然、壁がせり出してくる。
 壁は四方八方、上下左右から同時にせり出し、怜を取り囲み行く手を阻もうとする。その一瞬の隙間を潜り抜け、ビラビラとまといついてくる
ホースを振り払いながら、とにかく走り続けた。
 見えていたはずの梯子が突然、勢いよく遠方に遠ざかり、あったはずのドアが突然壁に姿を変えた。
この場所では、何もかもがあの獣の意のままになるのだろうか。


 地面がベルトコンベアのように滑り始め、怜は再び元いた場所に連れ戻されそうになる。
「糞っ」


 振り返ればそこに、総一郎の顔が嗤っているのかもしれない。
愚かなことは、止めるんだ、おまえはここからどこへも行くことはできないのだ、とでも言うかのように愉快気に見下ろしているに違いない。
ストッキングが伝線し、踵が折れたハイヒールを投げ、髪を振りほどいて走るしかなかった。


 その先に、光るロープが揺れていた。
それに捕まり、必死に駆け上がろうとした。脚に温い何かの温度を感じる。不気味なホースがピッタリと巻き付き、足首に食いついている。
それを左足で蹴落とそうとするが、しっかりと食い込んで、はがれない。
ホースは怜を下に引っ張り下ろそうと強い力でぐいぐいと引きながら、次第に長さを増してじわじわと脚を駆け上がってくるようだ。


 背後からは轟音が響き続けていた。まるで、鉄を打ち付けるハンマーのような音が鳴り響いている。何かが後ろでは起きている。
その前に、ここを脱出しなければならない。

 鼓膜をつんざくような轟音が爆風のように巻き起こった。それは爆発音のように思えたが、
総一郎のすさまじい音量の笑い声だった。
 激しい吐息が、台風のように体に降りかかってくる。巨大なその顔を、唇をすぐ背後に感じた。幅5メートルもある巨大な舌が、今にも自分の背中を舐め上げようと
しているのかもしれない。ゾクリとした冷たい感覚を怜は感じた。
 足首に巻き付いていた生ぬるいホースのようなものは、次第に湿り気を増し、嫌なにおいを放ちながら肉のミミズの様に変化しはじめている気がした。
それは、先端から何か粘液を噴射しながら、次第に足首から内腿の辺りへと這い上がってこようとしている。
左足で憎らしげにそれを蹴り落そうとするが、どうにもならずロープにぶら下がった自分の姿勢が崩れるだけだった。
 手首に力を込めた。疲労で指先の感覚が痺れ、力が抜けそうになってくる。だが、ここを脱出しなければ。
総一郎は、自分の世界に私を引き込み、想像の自分ではなく、生身の自分を自らのものへと支配しようとしている。黒ずんだ鉄塊に似た彼の体にしばりつけられた無数のクローンではなく
本当の自分を手に入れたがっているのだろうか。
 自分が、あの、クローン達と同じように、抜け殻の様にその鉄くずにつながれ、赤い粘液をポンプで吸われている姿を想像した。
「くそったれー!!」
 怜は、絡みつかれた右足を引きちぎってでも、ロープを這い上がろうとした。荒々しい吐息を背中に浴びながら、
股座に食いつくホースを抜け出す。脂汗が全身から吹き出し、手がすべりそうになる。
だが、ついにホースを振りほどいた。気を失いかけながら、全身をつかってロープを駆け上がり、黒い中二階へと逃れる。


 総一郎の叫び声を背中に感じた。彼は苦痛を訴えている。彼を本体と結びつける配管が、彼をしばって動けなくなっているのだ。
彼は自分を傷つけながらも、私を欲望しているんだと怜は思った。

 その漆黒の闇に閉ざされた中二階は、ジオセントラルにおいては”第五象限”と呼ばれていた。
 ラプラスの魔は、自らを維持するために絶え間ない血漿の補給を必要としている。それを補うために、どうやら工藤怜のクローン達との結合が不可欠となっているようだ。
だが、クローン達とつなぎ合わされた人工の大動脈は、今のところ彼を束縛するクビキとなっている。<彼>は咆哮をまき散らしながら、
自らの血管を引きちぎり、白目を剥いてせせら笑ったままのようなクローン達を、地べたに引きずりまわしながら中二階のすぐ真下にまで来ているのが分かった。


 巨大な掌が、黒曜石の床を突き破り、怜をつかもうとする。飛び散った石の破片が、怜の体をズタズタに切り裂き、防弾チョッキだったはずのものが、ボロ切れのようにすり切れてしまう。
壁面に空いた大穴からは、空が見えた。別の時代の空が、壁の向こうに広がっている。そこに流れる時間をこの場所は捉えている。
 しかしそれは、まったく見知らぬ光景であるかのように怜には思えた。
無数のラプラスの魔が、邪龍のように空を飛びかい、人間を気ままに食い漁るみたこともない過去の空だ。
 思う間もなくその邪龍の一匹は、中二階に鎌首をつっこみ血走った眼を爛々と光らせながら、顔を震わせて叫んだ。
ラプラスの魔が地面を這い上がって怜の前に姿を現す。その向こうに、天井と床を突き崩すように別の邪龍が、割り込んでくる。


 周囲に奇妙な呪文の言霊が張り巡らされているのを怜は見た。
それは、まるで古代マヤ文明の墓石に刻まれたような象形文字だ。その時、破損しきったかに思えたヘッドセットがノイズ交じりの声を拾う。
スペッキヲだ。彼は象形文字のロジックを組み立てながら、奇怪な呪文を詠唱している。
人はかつて、象形文字によって現実世界をプログラミングしていた --とスペッキヲが言う。


 次の瞬間、無数の光る狛犬の群れが現れ、ラプラスの魔に向かって立ちはだかっては弾き飛ばされていった。
その向こうに迫る邪龍たちは仲間を呼び寄せるかのように強い雄たけびを発した。
 怜は、自分でも気が付かぬうちに、その邪龍たちの叫びに呼応したかのように叫んだ。
その時、ラプラスの魔に縛られていた無数の怜のクローン達が突然目を光らせた。

 ”何だ、どうしたんだ”
 突然、見開いた目から真っ赤な光を放った怜のクローン達は、朽ち果てた体を奮い起こして立ち上がり、ラプラスの魔に急に襲い掛かる。
鉄塊に思われたラプラスの魔が、無残にもその裏側のミイラのような肉を露呈しはじるまで<彼女>はその肉体を貪り食っている。


 ”怜”
 その時、怜の前に青龍刀のようなものが光りを放ちながら降りてきた。それは、刀というよりは獣に似ていた。
手足と翼を生やし、ぐねぐねと蠢きながらゆっくりと降りてくるのだ。
 最初、それに手を触れるのを怜はためらった。近づいてくるにつれそれは熱い熱気を放っているのを感じた。周囲の気温が高く感じられる。
その刀は燃えているのだ。光の粒子が何かを放っている。常軌を逸した自然現象の極限状態にある物体なのだ。
あるいはそれは、ただの幻であって手が触れられない何かのようにも思える。
だが、つかんでみるとそれははっきりしない手ごたえを持っていた。軽い。この世のものとは思えない違和感を感じる。
 総一郎-ラプラスの魔は、怒りをあらわにしながら、まといついた怜のクローン達を引きちぎって捨てている。
首がもげ、指が胸に食い込み引きちぎられるものもいる。踏みつけられた果物の実の様に血液をまき散らしてペシャンコになるものもいる。
そして、彼はついにこちらに向き直った。その手を振りかぶって、怒りをぶつけようとしているのだ。
 怜は、青龍刀を手に走った。振り下ろされる太い腕をその刃で受け止めると、腕はあっけなく切断されてしまう。
ラプラスの魔がうなり声をあげて怯んでいる。その胸に飛び込み、奴の心臓を抉ろうというその瞬間、
巨大な大樹のようなものが行く手を阻み、怜は突き上げられて地面にたたきつけられた。


 一体なんなんだあいつは......。震える瞼を開き、その姿を確認しようとする。
立ち上がらなければならないが体に力を入れられない。
黒い影は覆いかぶさってくる。スペッキヲが召喚しているのであろう無数の獣たちに肉を食らわれながらも、意にも返すことなくこちらに覆いかぶさってくる。

 着地の瞬間、恐らく捻っておかしな方向に骨折したのかもしれなかった。脚に力をいれようとすると、本来あるはずのないところから痛みを感じる。
  -- 動けない。
 目の前に覆いかぶさってくる黒く巨大で複雑に絡まったちぎれたケーブル類をまとうその巨大な鉄塊が今にも崩れてつぶされるのではないか......
と思った矢先、両脚が何かに押し広げられた。鉄塊の腰のあたりから生じた無数の手が怜の両足をつかんで押し広げているのだ。
そして鉄塊の股座から伸びた大蛇のような細長いペニスが、くねくねとくねりながら怜の股間に徐々に近づいてくる。
 だがどうすることもできない。屈辱感と恥ずかしさを感じ、怜は歯を食いしばって目を閉じた。
両脚はいよいよちぎれんばかりに押し広げられ、怜はほとんど逆さづりの状態になっている。何かの叫び声が聞こえた。
それを怜は、自分の叫び声だと思っていたが、聞きなれないまったく知らない他人の声のようにも思えた。
絶望は暗い世界へと怜を沈めていく。そこには空気がながれることなく沈殿し、ベクトルの狂った重力同士が互いをはねつけ合う。
  --何かがパンティの辺りをなぞり、そして細かい歯を立ててその布面をチョキチョキと食いちぎろうとしている。
だが体にはもう力は残っていなかった。精神も深い諦念の中ですべてを達観したまま遠い世界の出来事のようにそれをただ眺めていた。
鋭い痛みとともに、無数の触手が傷口に食いつき、あふれ出る体液を貪るように吸い付いている。
不思議なことに、それは何にも感じない出来事であった。
まるで全身麻酔でもかけられたかのようになんの感覚もない。全身の中にたまった灰汁をすべてその獣に与えてしまえばいいだけなのではないか、
と怜は思ったほどだった。
 だがやがて、電気ドリルのような何かが、怜の局部に向かって肉を削りとばしながら侵入を開始した。
まるで幽体離脱のような感覚だった。
目を閉じ、何も感じていない。
だが怜には何もかもが見えている。
自分が巨大で邪な鉄塊に喰われていくその様が、すべて見えている。自分の体から少し離れた何もない空間からそれを見ている。

 やがて怜は、変化に気がついた。
 夢中で腰を振っている巨大な要塞のような存在、鉄塊が、次第に苦しみ悶え始めたのだ。要塞は何度も絶頂に達し、そのたびに象のようにおびただしい量の精液を土石流のように噴射していた。
だが、やがて明らかに狼狽しはじめた。ふと気が付いたとき、鉄塊は徐々に怜に喰われ始めていた。
怜はその様子を、無感動に、他人事のようにただ見ている。
 怜の子宮が鉄塊を徐々に吸い上げ、怜の肉体は次第に膨張しながら鉄塊を飲み込み始めている。鉄塊は怯え、まるで操られているかのように腰を振り続けているだけだった。
そしてそれが次第に鉄塊を苦しめ始めているのだ。何かの音楽が鳴り響き始めた。
太鼓の原住民族につたわるシャーマンの儀式を思わせる、怪しげなリズムだった。
その音は、二人の股間から響いていた。
 その音が意志をもってその儀式を操っている。そしてやがて怜は鉄塊を飲み込むような異形の肉の団子へと膨張しはじめていた。何重にも節を持つ、太く長い肉の塊であった。


 ”なぜだ”
 と総一郎の声が聞こえた。


 ”あなたは最後まで私を理解できなかった”
 と怜の声が聞こえた。


 ”俺は理解している。君の細胞の隅々まで”


 ”それは違う。あなたはあなたの中にある、自分が理解できるものだけを見ていた”


 ”......”


 ”あなたが理解できない部分も含めての私を、あなたは受け止めきれない”


 ”......その有様がこれか”


 肉片はついに鉄塊を飲み込み、切れ目に生じた無数の細かい歯でボリボリとそれを咀嚼すると、小さなゴミをペッと吐き捨てた。
時空は再び大きくうねり始めた。轟音とともに、時間が波打っている。
時の波打ち際で、二人の精神が原初生命へと生まれなおそうとしていた。

 工藤怜にとっての倉橋総一郎以上に、総一郎にとって工藤怜は、謎につつまれた存在であったに違いない。
 それは総一郎の妄想を掻き立て、激しい知的好奇心を駆り立てた。
だがやがて総一郎は、誘惑を振り切れずにその存在を矮小化してしまったのだ。
自分にとって理解できない他者ではなく、自分の荷姿としての怜を、本当の怜の代わりにイメージしてしまうようになっていた。
そして言葉は、かみ合わなくなっていく。
総一郎はどこか独り言のように怜に言葉を投げかけそしてその答えに耳を貸すことなく、想像の答えを自らの想像の中に作り上げて満足してしまっていた。
それは限りなくオナニスティックな自問自答であった。
 だが分からなくなっていた。
 そもそも、自分の理解できない他者を、自分の想像力を超えた存在を、それだけの想像力しか持たない存在が
原理的に理解しきれる可能性はなかったのだ。
やがて総一郎は、まるで鏡をみるかのように怜が自分そのものになっているのを発見した。
自分が理解できる最大の存在は、自分自身だからであろう。それ以上の存在を理解するための機能を、人は持ち合わせない。
 怜、と総一郎は言った。
 言いながら、自分でその問いに答え、そして自分で愉悦にふけり、自分で自分と愛し合う妄想に焦がれていた。


その姿を、軽蔑のまなざしでみている視線があった。
工藤怜のまなざしだった。


 ああっ、怜!と総一郎は震えた。
 怜が来てくれた!俺がどれだけ君を理解しているか、ついに分かってくれたのか!と総一郎はゾクゾクと痙攣し、知らず知らず射精していた。
怜は手にしていたポケットナイフを使って、総一郎をただひたすら闇雲に滅多切りした。
ああっああっ、と総一郎は涙を漏らしながら、喜んだ。

 感じて感じてあそこがジクジクうずいてやりたくてやりたくてたまらないのか! 怜! と総一郎は絶叫した。
その間絶え間なくポケットナイフが体を貫通し続けていた。
 俺が欲しくて俺が欲しくて眠れぬ夜に枕を濡らしていたのか! 怜! と総一郎は泣きわめいていた。
その間絶え間なくポケットナイフが体をめった刺しにしていた。
 血が飛び、散乱した肉片となってからも総一郎は感極まって感動し続けていた。
総一郎はナポレオン戦争について考え、そしてベートーベンについて考えていた。
運命的な出来事なのだ、と彼は思い、そして転がる目玉を怜に踏みにじられた。


 怜とは一体、なんなのだろうか。
 怜はあらゆる時代に遍在する。ウィルスの様に。それは黒いファルスだ。
虚数解の空間における負数の男根の象徴なのかもしれなかった。
総一郎はそう思った。
自分が怜をクローニングしたのではない。怜が無数に存在したのだ、初めから。
 総一郎はイブのことを思った。
新しい時代が始まるのだ。二人の交わりによって人類はさらなる遺伝子の伝承を紡ぐ。歴史が連綿と連鎖していくのだ。
そして怜は、総一郎の脳髄をポケットナイフの柄で慎重に抉り出し、興味深げにひとしきり眺めてから、ガブリと食べた。
ハーゲンダッツアイスクリームのようにそれを味わって食べたのだった。

 その時、怜は総一郎のノエシスによって生じたノエマとなっていた。
 総一郎の思考の中におけるシニフィアンが指し示すシニフィエとなっていた。その存在は限りなくシミュラクル的であり、
又はオートポイエティックに自己組織化する再帰的なシステム的であった。
つまりそれは、総一郎の心の中に発生した、総一郎の心を食い破る特異点となっていたのだ。
それは、あらかじめそこに存在したはずの対象a、すなわち根源的な欲動の原動力たる欠乏を起点として屹立してきたある種の構造だった。
その構造はクラインの壺のように自らの原因を帰結へと結ぶ円環を成し、ヘーゲル的な意味での真理そのものとの立式的な合同性を保つかに思えた。


 自らの心が生み出したはずの、もう一つの怜の荷姿こそが、総一郎を食い破っている。
そして怜は不可知の存在へと昇華され、彼の知覚の論理空間の狭間の彼方へと遠ざかってしまう。


 総一郎は、蠕動した。ただ、アメーバのようにゆらりと蠕動した。
彼の周囲の世界もまた、彼に合わせてうごめいた。
彼のあらゆる行動が、彼の周囲の空間を押し広げ、空気をゆさぶって蠢かす。その連鎖反応は遠い宇宙の彼方へと連鎖して伝播していく。
彼はある意味では、宇宙そのものと一体だからだ。


 怜がどこかにいる、と総一郎は思った。
 今、総一郎は宇宙そのものを感じている。その外側に、怜の存在を確かなものとして感じている。

 万物は二つの根源的な根本概念に分けられる、と総一郎は考えていた。
その二つとは、「形式」と「意味」であった。


 物質や法則、概念や感情、言語、そしてエネルギー、果ては法律や数式、舞い散る落ち葉、そして青空の彼方の無。あらゆるものは「形式」を持った様態であった。
そしてそれらを知覚し、取捨選択してシーンとして理解するとき、そこには「意味」が、あるいは無意味という意味が、主体の中に現れる。
それが、総一郎の思想の根幹にある着想だった。


 その考え方は、フェルディナン・ド・ソシュールの記号論に着想を得たものであった、とされている。
総一郎は、シニフィアンとシニフィエからなるラング(記号)の体系を、万物理論にまで拡大して適用できると考えた。
そう考えた時に、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインによって「語りえぬもの」とされた”物自体”を「形式」としてとらえきることができる視座を
構築できる事に、早くから気づいていたのである。


 ウィトゲンシュタインが考える論理空間は、総一郎の形式理論にとっては部分集合にすぎないものでしかなかった。
彼はその「形式」を、しばしば「データ」と換言することがあった。
あらゆるものは「形式/データ」となり、知覚によってコンパイルされ、脳内において意味として主体を駆動する「意味」を果たすのだ。


 一方では彼はかつて、この理論が既成の脳科学と同様にクオリア問題として知られる問題をはらんでいる事も承知していた。
クオリア(qualia)とは、主体の脳内だけに固有に生起してくる「感じ」のことであるとされる。
茂木健一郎は、現代脳科学が解明できないものをすべてこの言葉に詰め込み、科学であることを放棄してしまった。
反証可能性をすてることによる意識のハードプロブレムの超克可能性を装ってしまった。そしてそれはオカルト的なものでしかない。
だが、総一郎はこの問題の解をすでに見出していた。


 その立式は奇しくも彼が参照し続けてきたフェルディナン・ド・ソシュールが見出したシーニュ(signe)の概念と相似形であった。
彼は「形式」と「意味」との”恣意的な”関係性を見出し、そして記憶が読みだされるたびに変化した連想記憶(近隣の記憶領域の変動によって絶えずその連想は入れ替わる)
との関係性にクオリアの居場所を見出した。
そしてまた、宇宙そのものが時間とともに膨張し変遷するという観測事実と、主体の知覚機能が成長しそして老衰するという現実との中で
「形式」そのものが動的に変化し絶えずアップデートされている事の中に、クオリアの恣意性の起原を見出した。


 だが工藤怜だけが、その関係性の方程式の中に納まりきらない存在だった。
それを理論の射程距離に捉えるために、総一郎は知らず知らず狂気にかられていたのだろうか?
今や彼は、その理論もろとも工藤怜の子宮に喰われ飲まれて赤子以前の原始生命にまで退化してしまった。
工藤怜は「形式」であることを拒んだ。
そして総一郎にとっての「意味」が、彼女の全容をとらえきっていない事に疎外感を覚え、彼を食い破って吐き捨てたのだ。
だが、総一郎の理論は生命の様によみがえる。
その理論には、偶然ながらもなにがしかの、否定しようのない真理をついているとでも、言うかのように。

 斑鳩駿は、その日初めて、気づいたことが在る。
 駅へと向かう道のりに、信号を一つ迂回できる裏路地があったのだ。
それは、交差点を左に折れて、ホテルと飲食店の裏側に空いたゆるくカーブした斜めに走る狭い脇道で、
空調の室外機のプロペラが並んだうらびれた暗い路地だ。
誰もこの道を通っているのをみたことがない。
ここに道があることに、誰も気が付かない。そういう裏路地が抜けている。そのことに駿は気づいた。
もう20年もつかっていたle coq sportifのリュックをようやく買い替えようと思い立ったときにそれに気づいたのだった。


 確かに、そのリュックは、満員電車の中では多少は楽になる。だがそれは、吊り革に揺られて立っているのであればという話だった。
椅子に座るなら、電車の中で置き忘れないように膝の上に乗せられる程度の小型の鞄のほうがまだマシだった。
そのことに気が付いたというよりも、トイレの個室に入った時、置き場所がないのでドアにつっておくための輪の部分が痛んできたことが
直接的な動機だったのかもしれない。
思考は矢継ぎ早に買い替えの合理性を組み立て、それを既成事実として記憶の奥底に刻み込んだ。
まるで、むかしからそんなことは当たり前のように考えていた、知っていた、とでもいうかのように。


 だが、本当はそこにも裏がある。
確かに買い替えようとは思っていた。気にはしていた。
それよりもむしろ、スマホの保護フィルムを張りなおしていたら気泡が入りまくり、家電屋のプロに張りなおしてもらって待っている間に
なぜか家電屋においてあった鞄のひとつが目に入り、さまざまなことを思い出した結果、待ち時間を鞄の買い替えを考える事につかってしまったのだ。
彼は店をでて、喫煙所のある駅前までの道のりを悩みながらあるいていたら
ふと、脇道にきづいた。そして喫煙所までの近道を確かめるためにその脇道を歩いた。


 人生は、かならずしも喜びの連続ではない。
なぜなら快楽は快楽の感覚をマヒさせる。より強い快楽を求めなければ満たされなくなる。
苦痛もまた然りだった。変化を、変化を求めているのだと駿は思った。
喫煙所には、強いセックスアピールを放つ飲み屋街の娘たちが何かの悪態をつきながら煙を吐いていた。
その姿は、何かしら美しい煙突のように思えた。
黒い煙で青空に爪痕を残そうとしている美しき野獣のようだ。


 彼は、タバコを灰皿に捨て、そして脇道を探した。
人生には、無数の脇道がある。その先には、自分の知らない世界が待っている。

 裏路地の先にあった、まばゆい電飾。それは、WILD HEAVENという謎の虹色の看板だった。
駿は、その門をくぐった。それは迂回路のような複雑な通路だ。人目につかぬように趣向を凝らした立地なのだ。
一体、ここになにがあるというのか?


 ドアを開けた時、虹色の閃光が瞬いた。いや、それは果てしなく明滅しつづけているのだ。
下腹部に染みるような強烈な重低音のビートが鳴り響いている。
駿は、恐る恐る中に踏み入る。ここには俺の知らない何かがあるというのか、と彼は思った。


 そこには、蝶が舞っている。無数の光る蝶と、蛾と、そして赤道直下育ちの極彩色の鳥たちが放し飼いになっている。
なんだこれは、と思った。
大沢あかねみたいな女が、半裸の姿で踊り狂っていた。


 女たちが、客たちと唇を吸いあい、仲睦まじくついばみ合っているのだ。
その光景は、駿を強張らせた。
なんて下品な!と駿は思った。だが、股間がモコモコと充血し、血流を一点に充実させてもいたのだった。
ホルモンが分泌され、彼の思考は論理的な回路を逸脱しはじめる。


「やらせんかい!」
 彼は札束を突き付けた。
 女たちが、彼の股間と札束に群がった。彼は大沢あかねみたいな女にとびかかると、股間を激しくこすりつけた。
「......もっと静かなところで、やる?」と女が言った。

 「あたしは水谷きらら。こっちに裏口があるから、待ってて。何人か呼んでくるね」と大沢あかねみたいな女は奥へ消えた。
 しばらくして、合図を送ってきた。駿は、モーレツに昂っていた。ヤッてヤッて、ヤリまくるぞ!


 そこから再び静かな裏通りに出る。向かい側に、ラブホテルがあるようだった。きららは、3人の若い娘を連れてきていた。
暗く人の気配のない裏通り。若い娘たちは背徳感に似た興奮を感じてそわそわしているようだ。
 駿は、ガマンできなくなり、きららの背中に抱き着いて後ろから強引に唇を吸った。そのまま暗い荷物置き場の影に押し倒してしまう。
3人の若い娘は、ありゃ~とか、え~とか、ずるーいとか言って口に手を当ててアタフタしていた。
 チュウチュウチュウチュウという唇を吸いあう音が聞こえて、もじもじしているのだ。
「ああっ、もう、アレコレ考えるのめんどくさぁい、みんなもきなよ」
 最初に、ショートボブの娘が動いた。彼女は城ケ崎ゆきという。あとで知ったことだ。ゆきはレズビアンで、きららの性格に惚れているらしかった。
そして、駿が後ろからきららの唇を吸っている間に、ゆきが顔を赤らめながらその両脚の間に顔をうずめて舌をチロチロと這わせている。
ほかの二人はきららの上着を脱がせ、ずらしたブラの間からチクビの辺りを噛んでいる。
 誰もいないはずの暗い裏通りだが、すぐそばの街道を行きかう酔っ払いたちの喧騒が聞こえる。今にも誰かが入ってくるかもしれない。
5人は聞き耳を立てながらもしかしもう誰も止められなくなっていた。
一度解き放たれた火照りとうずきは、スカッと解き放たれるまで若い肉体をしびれさせつづける。
今しかないんだ!という天啓が、5人を強く結びつけて離れられなくさせたのかもしれない。


 ちょうどその頃、表通りを、スペッキヲが歩いていた。何かに疲れ、そばの喫煙所で何も考えていないという顔をしてタバコを吸っている。
駅のロータリーを行きかうバスの行き先表示をなんともなく眺めながら、ここではないどこかが、違う人生があるのだろうかとぼんやりと考えている。
その後方の閉店した店の裏側の通りの物陰で、5人がセックスにふけっていた。

 水谷きららは、昔から男勝りの勝気な性格だった。4月生まれの彼女は、周りよりも発育が良かったのかいつも周りが子供に見えて仕方なかったらしい。
運動神経が良く、反射神経が鋭い。頭の回転が速いので口喧嘩でいつも男の子を負かしながら育ってきた。
が、学校の勉強のほうは高校に入ったあたりでだんだんと上位から転落し、そのあたりで少しずつ不良仲間を作ってストリートでやんちゃするようになっていったらしい。
 高校卒業後上京し、アパレル店員としてしばらく活躍するも、閉塞感を感じ、キャバクラのキャストに転職。何人かの男性との関係をこじらせた挙句、
風俗嬢やデリヘル嬢などを経て、今の店にいきついていた。風俗店はカラダが持たない。一日中いろいろな見知らぬ男と二人きりで監禁され、
代わる代わる犯されているうちに肉体的に限界を感じるようになっていた。
 自分は本当は男なんじゃないか、と思うほど、きららは性欲が強いほうだったが、商売にしてみるとそれはただの作業になってしまう。
相手には深入りさせなければならないが、自分が相手に深入りすると客が多すぎて精神が持たないのだ。


 3年前のあの日、きららは一人の若い男を客に取った。その時、彼女は思いがけずその若い男に深入りしてしまった。
その若い男は童貞で、新卒の内定式で上京してきてホテルを取ったついでにデリヘルに電話をかけたという。ウブな彼は、自分の学生アパートの電話ボックスが
デリヘルのビラで埋まっていて昔から気になっていたがさすがに部屋には呼べなくて悶々としていた、ホテルを取ったときにふとそのことを思い出したと言った。


 筋金入りの変態か、色々な事情を抱えた客が大半のこの業界で、そういう素人の客、それも童貞の客は珍しい。きららはサディスティックな衝動に駆られ、
この子を快楽漬けにして、奴隷みたいに常連客にしてやろうと彼をシャワーから送り出してベッドに待たせている間に考えていた。
久しぶりにあそこがうずき、自分がいつもの冷静な自分でなくなっているのを感じた。
まともな企業に内定して、これから順風満帆な出世街道を行くはずの若くてお利口そうな行儀のいい童貞の子。いくらでも弄べる。絶対に逃がさない。
聞けば、地元はつきあっていた元カレと同じだった。元カレはその地方都市のトップ高からホストになり、風俗業界でいくつもの会社を持っていた。
この子も、おそらくそこの出なのだろうか?


「お待たせ!」と教師のコスチュームに着替え終わったきららはバスルームを出る。「どう?」
「えろい!でもお姉さんみたいな人が、なんでこんな仕事をしてるんですか?」


 きららは眼鏡をついと上げる。商売用のでたらめなプロフィールはある。だが、口をついて出たのは、先ほどの実話だった。
初めての快感を体に覚えこませて、童貞の体を開発する仕事がまっている。
きららはその童貞に襲い掛かった。押さえつけて、乳首を責め、甘い声できつく叱りながら、四つん這いにさせ、とがった舌先で肛門をくすぐる。
男は腰がくだけてカクカクと機械のようにひきつけを起こし始めた。きららは男の感覚を、自分の感覚のように感じることができる。
責めながらも、自分が責められているかのように体が熱くなってくる。
男は何回も射精し、ベッド全体がヨーグルトのようになってしまっていた。その時、急に男は豹変し、急にきららを強引に抱きしめ、
唇に吸い付いてきたのだった。きららは動揺した。返す言葉が、何かひどく場違いな言葉になってしまい、よくわからないままに組み敷かれ、
気が付くと子宮を細く小さな、野暮ったいペニスで突かれていた。
「先生、先生」と彼は言っているのが聞こえた。
 彼は、何かの妄想に駆られて自分を襲っている。その目は暗く曇ってしまっている。だが、もうどうすることもできない。
その若い男はさきほどまでとは別人みたいに力強くきららの両腕をきつく握りしめ、抵抗できなくなった。
どうして、いつもこうなるんだときららは思った。
男たちはいつも、自分の向こうに、誰か違う人間の影をみている。
その感覚は孤独をもたらし、きららの心を冷たく暗い世界に疎外する。だが一方で、身体はもういうことを聞かない。子宮が生理的な欲求に従って蠕動し、
わきあがってくる快感をさらに求めてじわじわと熱くなる。こみあげてくるなにかを身体の奥から吐き出したくなっている。


 -- お願い誰か助けて、このままじゃあたし、本気でイッちゃう。


 悔しさと快感と混乱とが入り混じってジタバタともがくがますます強く束縛され周期的な快感が身体の奥を突き上げてくる。
目が震え、視界が霞んできた。それはいつもと違う感覚だった。
 きららにとって、性行為はいつも、自傷行為だった。
自分を滅茶苦茶に破壊して、すべてをリセットしたい。全部台無しになってもいい。強い野獣に好きなように喰われて死んでしまいたい。
何もかもがゼロになり、蒼白な世界で臨死体験を経験する。そのままもう戻ってこないで、遠い世界に消えてしまいたい。
だが、いつも心はまた現実に戻ってくる。


 自分も他人も、よくわからない。
男勝りな性格だったはずの彼女は、髪を暗く染め、塞ぎがちになっていた。ほどなくしてデリヘルを去っていた。
その日の事を思い出せば思い出すほどに、自分があの子に似ていく事を彼女は知った。
もう一度彼に会いたい。だが、彼がどこでどうしているのか何も分からない。

 水谷きららが後ろから唇を吸われている。首をかしげた二人の唇から垂れた唾液がきららの胸の谷間にこぼれる。
二人の娘がそれを舐め、また乳首をくるくると舌でなぞっている。
 城ケ崎ゆきは、じれったさと悔しさを感じていた。よく知らない男に、自分のきららが奪われている、と感じた。


 ゆきときららは高校時代からの同級生だった。きららが不良たちのリーダー格になっていった一方、清楚でおとなしい性格のゆきは
目立たない存在だった。きららは学校の成績こそひどい状態になっていったが、元々入学時点では、学年2位だったのをゆきは覚えていた。
(その時、ゆきは3位だったからかもしれない)。


 自信と責任感にあふれた強気なきららが、不良たちを心配して面倒をみて、付き合っているうちに成績が落ちていっているのをゆきは気にしていた。
全く正反対の性格であっても、ゆきは本能的にきららを尊敬し、どこかコンプレックスににた複雑な思いを感じていたのだった。
 ゆきはあるとき、きららがバスケ部員と不良たちの喧嘩に巻き込まれ、仲裁に入ったラグビー部員になぜか体育館裏の用務室で犯されているのを見てしまった。
その時から、ゆきは、きららの事を思い出し、その孤独を思い、自慰にふけるようになっていた。
きららはそんなゆきのそんな気持ちをどこかで気づいていたが、ふざけて気が付かないふりをし続けていた。
どうしてそんな風に生きられるのだろう。ゆきはきららが心配で、ずっとその背中を追い続けていたのだ。


「おいで、ゆきちゃん」
 きららが何かに気づいてこちらを見ていた。一生懸命に内股に舌を這わせ続けていたゆきは、駿と入れ替わるようにきららの唇に吸いつく。
その舌はザラザラして熱い。ガマンし続けていた身体がもう限界になっている。ゆきは知らず知らずおねだりのような声を発しながら
きららの舌を求め、その濡れた太腿に自分の股間をこすりつけはじめた。じわじわとした何かが燃え始め、今まで感じたことのない世界が天空の雲間から光をさしてくるような気がした。
ようやくきららに自分の気持ちが届くんだ、とゆきは感じた。きららの気持ちが自分の中に入ってくる、とゆきは感じた。それは大きくて、あらゆる苦楽の思い出とともに走馬燈のようにまわりをぐるぐると取り囲んでいく。
このまま溺れたい、永遠に窒息したい、とゆきは思った。その目から涙が溢れていた。

 城ケ崎ゆきが、感無量になって股間から本気汁を溢れさせておねだりのような甘い声を発しながら悶えているの見て、駿は
股間がパンパンになって破裂しそうになっていた。
 狂おしくきららと求め合っているゆきの股座に、駿はもうガマンできずペニスを挿入した。ゆきは何かとてつもない幻覚を見てすさまじい快感に涎を垂らして痙攣している。
その様子は何かが降りてきたシャーマンの状態のようにすら見えた。ゆきはカニみたいに両脚で駿の背中を挟み込みながら、きららと抱き合いチュクチュク音を立てながら唇を吸いあっている。
二人の娘が快感に悶えるゆきの両腕を押さえつけて乳首を舌で舐っている。4人はゆきが何かとてつもない境地に到達するのを期待し、
自分もそこに合わせてイッてしまおうとしていた。
 表通りからは喧嘩のような声がする。危険なスリルの感覚を感じ、ますます夢中になっていく。早く、一刻も早く、違う世界にワープしなければならない。
駿は常軌を逸したリズムでピストンを打ち付け続けた。ゆきは、今まで感じたこともない圧倒的な感じに襲われ、混乱し、快感のあまりにパニックとなって大きな声で何かを呼び続けながら体をくねらせ悶えた。
4人に押さえつけられ全身を責められ、自分の人生の走馬燈に取り囲まれていた。
人生でもっとも感動した出来事や、人生でもっとも切なかった出来事や、幼いころの感情などが閃光のごとく見開いた目に映画の様に浮かび上がっていたのだ。
懐かしさのような感慨があふれ出し、どこかで聞いたことのある音楽が頭の中に鳴り響いてきたのだ。
「ガマンしなくていいよゆきちゃん。......イッちゃってもいいよ?」
 きららは撫でるような声でゆきの耳元に吐息を吹きかけながら囁いた。
 ゆきの身体がまるでロボットの様にけたたましく痙攣し、消防車のホースが放水するような勢いで何度も何度も愛液を噴射しつづけた。
両目は互い違いの方向をみつめ、身体は痙攣し、愛液の噴射は止まらなくなっている。
「ゆきちゃん」
 きららはゆきの横顔を愛おしそうにそっと撫でた。
「あああああ」
 ゆきはもはや廃人のように弛緩しきって全身から体液を垂れ流してゾクゾクと震えている。
「ようやく楽になれたね。......ゆきだけはずっとあたしを見てくれていた。ほかの誰かではなくあたしを見てくれていたよ」
 きららが目に涙を浮かべながら、震える唇ですでに失神したゆきの垂れた唇を再び吸い始めた。


 なんだ? 救急車が来たな、とスペッキヲは思った。
どのバスに乗ろうかとスペッキヲは表通りでぼんやりタバコを何本も吸っていたのだった。

 ここはどこだろう、と城ケ崎ゆきは思った。
 自分の人生をさかのぼる長い長いトンネルのようなものが目の前に広がり、そしてそこを抜けた先に見知らぬ宮殿があった。
そして自分が誰なのかを少しずつ<思い出し>てきた。
 ゆきは、学生だった。
 そして卒業式を目前にして、出席日数が足りずに卒業できないのではないかという不安にさいなまれていた。
クラスはまるで国会議事堂の議会のような教室で、みな見知った顏が並んでいる。
水谷きららが「おはよー」と言って隣の席を空ける。


 昼休みになり、バイキング方式の食堂でハンバーグを取り分けて、ふと見知らぬドアを発見して開けると、
そこに空中を走る綱渡りのような空中回廊があった。気になってゆきは、ハンバーグを取り分けた皿をトレイに抱えたまま、その回廊を進んでいく。
「待ちなさい」と誰かの怖い声が聞こえ、ゆきはトレイを投げ捨てて走り出す。


 直径8メートルはある巨大な大樹がそびえていて、そこには縄梯子がかかっている。ゆきはそれを駆け上がって追ってくる誰かを振り返る。
しかし誰もいない。気配はむしろ上から迫ってきている。先回りされたのだと思い、ゆきは枝を伝ってとなりの図書館へのびる蔦を渡っていく。
高さは50メートル以上ある。地上を見下ろすと吸い込まれてしまう気がした。
鳥が降りてきて、なぜかその蔦を食いちぎろうとし始める。
 急がなければ、急がなければとゆきは思った。毛むくじゃらの怪物が追いかけてくる。

 ゆきは遠くに焼き肉屋が見えることに気がついた。駐車場と、フェンスを隔てた100メートルほど先に。
その焼き肉屋の二階に謎の小部屋がある。その小部屋は中からは通じておらず1Fの裏口と、1F部分の屋上から入るためのドアが外にあるようだ。
1Fの屋上に一人の男が缶コーヒーを飲みながら歩いていた。彼はそれを飲み干すと、ドアの前に缶をおいてその小部屋に消えた。
一体なんのための部屋なのだろう?


 しばらくすると裏口から階段を上がっていく青紫色の派手なワンピースの女の子が見えた。派手にカールした金髪の女の子だった。
彼女もその焼き肉屋の二階の小部屋に入っていく。しばらく時間をおいて、別の若い男の子が同じ階段を上がって小部屋に入っていった。
小部屋からは店名のプリントされた前掛けの若く健康的な青年がケータイでどこかに電話しながら出てきて、周囲をきょろきょろと見渡しあたりの様子を確かめている。


 小さな小部屋だ。中はそんなに広いとは思えない。だが次々と男の子たちが時間差をあけて現れ、小部屋への裏の階段を上がっていく。


 背後から声がした。
「ゆきちゃん、帰ろう? ここにいると帰れなくなるよ」
 振り返った時、そこにいたのは七色に光るダスキンモップのようなものを全身にまとった怪物だった。
「もういやだ! これ以上私をだまさないで!」
 ゆきは全力で走った。しかし体はいうことを聞かず、ほとんど前に進むことができない。走っても走っても、景色は逆に自分から遠ざかる。
どうしてなのだろう。前に進もうとすればするほど、身体は逆走してしまう。
ダスキンモップのような怪物が両腕を広げて抱きしめようと近づいてくる。
ゆきは、自分の耳が聞き取れないほどの甲高い悲鳴を上げた。

 聞くところによると、このところのスペッキヲはどうも様子が変だとのことだ。
 仏頂面を下げて、押し黙っていることが多いとのこと。


 取り立てて変化があったということもないから、季節なりなんなりが調子を狂わせているだけのようでもある。
だが、本当のところはそうではない。
 彼にはやはり、どこか内面的に未発達な部分があるのだ。
人間というものは生まれた状態では極めてナルシスティックな生物である。
自分の願望が満たされないと、泣きわめいておっぱいを求め、排泄物を噴射する。それがやがて、自分とよく似た別の人間と遭遇し、
ぶつかり合い、痛い目にあったり助け合ったりしながら、どうすれば一番幸せになれるかを理解して、社会性を獲得していく。
 だが、スペッキヲの中にはその社会性は、未発達な部分を残している。彼は、望めば大抵のものを与えられ育ってきた。
そういう時代の、そういう世代として育ってきた。
社会性など、磨く必要すらない時代にワガママ放題に自分の欲望に従って気ままに生きて、やりたいことだけをやっているまに大きな大人になったのだ。
つまるところ大きなコドモであった。


 昔からそういう若者は少しずつ増えてはいたそうである。
スペッキヲも高校時代を振り返ってみて、ピーターパーンシンドロームという言葉が教科書に載っていたことと、
そのダサさとを思い出すことができる。だが、そのダサさは、彼自身のダサさに結びつけて考える事はなかった。
考えてみたことすら、なかったのであった。


 スペッキヲは基本的には、自分の欲求に従って生きている。
そのこと自体は、誰とも違わないだろう。ありとあらゆる地球上の生物たちとも変わらない。
だが、大抵の大人は、その欲望を制御するための理性やモラルに従って判断をする。
その理性やモラルは、ただそのように生きる前の世代の生き方を真似、そうすればうまく生きられると体得して身に着けるものもいれば、
そのことに疑問を持って考え込み、イマニエル・カントの批判三部作のような根源的な思考からその生き方が一番合理的であることが疑いえなくなって納得して身に着けるものもいる。
 だがスペッキヲは違った。そういう精神の制御装置が彼にはない。まったくの手放し運転のように、
彼は何事にも縛られない。必要があれば、何の良心の呵責もなく、ルールを破るだろうし、
そのほうが得だと計算が成立している間だけは、まるでモラリストのように杓子定規にルールに従順にしたがって、結局は自分の欲求だけ満たして生きている。


 そんな彼が、つまり悩むこともなく生きていた彼が、何に悩むのだろうか。

 ここで断っておくべきことは、彼を浮かない気持ちにさせる何かの正体など、私は知らないのだということである。
ただ、そのことについて触れておかないわけにはいかない。これは都合上の便宜的な理由であって、特に他意はないのだった。


 さて、ここで一つ考えてみるべきことがある。彼は根本的に一匹狼として生きているということだ。
もちろん、彼にも群れる仲間たちはいるのだったが、それは昔そうだった仲間たちと今も必要があれば群れているというだけのことに過ぎない。
彼はかつては、仲間内ではほどほどに人気者として受け入れられていたことがあった。
学校というものは、似たような人間を集める機能がどこかしら勝手にできあがるものだ。
昼休みに飯を食わない変人たちが図書室に集まって、わけのわからないいたずらを考えて暇つぶしをする。そういう連中の中で彼は一番イカレていた。
地理的な距離を無化するネット社会の恩恵は、彼のその頃の仲間たちとの距離をゼロに保っている。
今なお彼らと、暴言を吐き合い、罵倒し合っていたのだ。彼らの仲は大体そういう関係だ。殺すぞバカと怒鳴り合っても
誤解が生まれない互いを知り抜いた腐れ縁だ。
 そういう関係を、彼はしかし、それ以後別の場所で作り上げることは二度となかった。どこにいようがどれだけ離れていようが
ネットやスマホで距離がなくなる時代に、ほかの仲間を求める必要もなかったのかもしれないし、あるいは、彼はだんだんと
自分に似ていない人たちの社会へと進むにつれ、自分が目立たぬ凡人になってしまうような集団の中で生きるようになっていったともいえるのかもしれない。
 彼自身は、孤独を感じるような環境には生きていなかっただろうが、他人の目には常識的に考えれば
”彼はきっと孤独なのだろう”と捉えるしかないような側面しかないことをなんとなく察していた。
そして、そういう捉えられ方は、彼に対する接し方に影響し、どことなく彼を無駄に混乱させているということがあったのかもしれない。
もちろん、実際のところ彼は目立たぬ凡人なのだから、”彼はきっと孤独なのだろう”という印象すら抱かれないほど無個性なマネキンでしかなかったのだろうが。


 他人にはどうも思われていなかったにしても、彼自身だけは、彼を非常によく観察していた。
そして、自分自身を、自分自身に対してどう見せるかにこだわっていた。
しかしその自己イメージは、他人との人間関係における相手の反応から得られるフィードバックから形成されているものでもあった。
そのフィードバックから、彼は自分がどのような人間であるのかを逆に知らされる。
そしてそれと自分の思い描く自己イメージとの差を、調整していきながら、適切な自分を知っていく。


 彼は、他人に無関心であったがゆえに、他人に対して自分をどう思わせるかという事には無頓着だった。
そのことに非常に関心があったのであれば、例えばファッションに気を配るとか、話し方や姿勢を正すとか、(あるいは見せたいイメージによっては)それをあえて崩す、
といったような事を行っていっただろう彼が、そのことには極めて無関心だった。
自分自身が快適であることを重視することのほうが彼には大事だったようだ。


 だが結局のところ、それらはどこかで彼自身の首を絞めている。そこには何段階かのステップがあり、間接的原因を作っているようにも見える。

 とまあ考えてみたところで、結局のところ答えを摘出することは難しい。
 もう少し漠然とした抽象的な言い方をしたほうがむしろ大枠をつかむことができるのかもしれない。
つまりスペッキヲはストレスを感じていたのだ。そう換言すると、事は別の方向に展開する。彼がストレスを感じる理由などいくらでもあるだろう。


 少し飛躍して考えてみる。
 一人の労働者としてのスペッキヲという人物は、これはまあ彼は彼で、独特の価値観に従って仕事をしている。
その価値観は、なんとなくコンビニ店員を思わせるような、マクドナルド店員を思わせるようなところがある。それは要するに、
仕事における自分は、個人ではなく役割にすぎないという価値観だ。
そこに私情なり感情なりはさしはさまれることはない。万人の依頼を、万人公平に同じやり方で対応する。
人間である以上、例えば仲のいい相手、気に入らない相手というものはあるものだろう。セクシー美女もいれば、ライバルもいるかもしれない。
感情に従って行動するなら、好きな相手と嫌いな相手とでは同じ依頼でも異なる対応をするということになる。
それは、スペッキヲにはない。
 ない理由は簡単で、選り好みをする場合と選り好みをしない場合とでは、しない場合のほうがチャンスが多く、選り好みをしていたとしたら
そうではないスタイルで働く者よりも結果が出せないからだった。
 だが、それは彼が万人に対して温もりがあるとか公平であるということまでは意味していない。単純に、ありとあらゆる依頼を
機械の様にそっけなく対応するだけだということだった。そしてそれは、はた目にはなんとなく違和感を感じさせる態度でもあったのかもしれない。
なぜなら彼は、私情を捨て去れるほどクールな人間には見られていないからだ。どこかで彼は、その子供のような稚拙な感情をむき出しにして取り乱し、
ヒステリックに暴れて、ワーワー騒ぐのではないかとみられていた。そして人々はそれを密かに期待し、待ち望み、楽しみにしていたのだ。

 その計画は、極めて慎重に議論され、準備されていた。
 スペッキヲの限界を試すための単体テストだ。とにもかくにも何段階ものレベルを準備し、彼がどこまでそのレベルをクリアできるかが試されている。
極めて洗練されたレベルデザインだ。少しずつ難易度があがる。ソーシャルゲームのイベントを本番公開してメンテナンス画面を開けた次の瞬間に、
キャッシュがバグって同時に関係のない依頼の電話が10件同時に彼を襲う。10人の美女が彼を責め立て、「なんとかして!」と叫ぶ中で彼はゲームの障害対応と
補填の内容、候補者のidを割り出すSQLを可能な限り即時に用意しなければならない。そしてそれに対してマネージャーは、話しを聞かずに「NO!」と叫ぶことになっていた。
「なんとかして!」
「NO!」


 もはや彼は意地を張っていたのだ。何が何でも、すべてを完全に片づけてみせるしかない。なぜかは知らないが、どう考えてもおかしな状況だと彼は気づいていた。
からかわれているとしか思えないと彼は感じていた。すべての問題が呼吸を合わせて完璧なタイミングで同期して発生する。何一つスケジュール通りに進んだことのない
このビジネスの中で、問題だけが完全に秒刻みのスケジュールで続けざまに同時発生していたのだ。
 顔面が岩の様に硬直し、彼は感情を押し殺した声で報告を上げる。何も聞かずに話を遮り、「NO!」と怒鳴らりちらす上司。窓ガラスが派手に砕けて、
武装集団がオフィスに突入してくる。
「立てこもり事件が発生との通報を受けました!」
「NO!それは違う国の現場だ!」


 スペッキヲがいつか音をあげ、「おいこらふざけんなてめえ」と言い出すのかどうか、それとも彼のくだらない芝居を続けられるのかどうか
それはまだはっきりとは分からない。だがレベリングは続けられ、彼はストレスを感じて困ってはいる。
 

 プーッ!クスクス!!
 柱の陰に、むささびたちが見守っていた。

 ボンバータイム和也が現れ、ふとましく叫んだ。
「本音をさらけ出さんか!」


 スペッキヲの心にフラッシュバックするものがあった。彼が学生時代にバイトしていた頃のことであった。
バイト雇用の制度を備えてもいなかった日本最初のCADソフトハウスで、彼は唯一のバイトとして雇われていたことがあった。
彼は大学でプラプラしていて一年留年していたため、先に就職した同級生に「あいつが必要です」と紹介されて変テコなチームにいれられたのだ。
彼は仕事というものをそれまでしたこともなかったし、人間関係も特殊なタイプだったので没頭して仕事をした。
だが、メンバーは彼が素顔をさらけ出さない事を気にして、プライベートな話をするようにしろ!本音をさらけ出せ!と求めていた。
 仕事というのは、場合によっては、ただ役割だけこなせばいい、そつなくやっていけばそれだけで十分というものではない。
信頼関係なり互いにいい印象を築き上げたりと言ったことの中には、自分自身を見せるということも一定のモラルの中で求められることもある。


 なるほどそうかもなあとスペッキヲは思う反面、自分自身の内側の中味というものが彼には見つからなかった。
自分の心が空洞だなと思ったのだ。
 彼は必要最小限の努力で、最短距離で、欲しいものを得て、あとは何か思いつくまでボケッとしていればいいという生き方を好む。
そこには無駄がない分、面白みもない。砂漠のような精神世界だけがただ地平線まで続いていたのだ。
 本音とは一体なんなのか。
 彼は喫煙所でぼんやりと考え込んでいた。


 ウザいことやら面倒な事など何一つ起こらず、何もかもがつつがなく進めばいいとだけ思っていた。
だが、それが本音なのかどうかはよくわからなかったのである。

 ちなみに彼は、今突然そのようになったというわけでもなかったようだ。
これまでも彼は、時々そういう仏頂面を下げて何か思い悩んでいるような様子になることはあった。
仲の良かった高校時代の友人達らと飯を食っている時ですらそういう風に見えることはあった。


 そしてそれは主に、その友人らが別の友人を連れてきた時にそういう様子になるようであった。
そういう場合、その「別の友人」がゲストとしてその場面の主役になるだろう。
スペッキヲはその時、聞き手に回るだろう。だが本人は、親しい仲間たちとの間で、ただ聞き手に回るような
そんな状況を好んでいなかった。場が、社交辞令的なよそよそしさに包まれていくことを居心地悪く思っていた。
 そしてスペッキヲはその場で、ある種の持ち味を発揮することを求められてはいて、
その為に「別の友人」らと引き合わされているにもかかわらず、何かその持ち味とは裏腹に、人見知りのようにつまらない態度を
取ってしまうことが多かった。


 往々にして、人は、自分と仲間たちだけの間で生きているというわけではない。
普通であれば、過去や未来、家族や親せき、それまでの人生の中で培ってきたその時代その時代の仲間たちというものを
一人の人間の中に抱えている。自分と相手とのかかわりの間には、自分の過去と未来の人間関係や、
相手の後ろにいる過去や未来や現在の人間関係との間の関わりというものも時々、垣間見えてくる瞬間がある。
相手の裏側にいる無数の人たち全員に、理解され、好感を持って意気投合しなければならないのだとしたら、人間関係を新しく作り上げることは
恐ろしく面倒で見返りの少ない営みのようにも思えた。


 彼という人間を支えていたのは、分かりやすさではなかった。
それは彼の中の二面性だったのだ。その二面性は、とてつもなくまじめな努力家でありながらも、言っていることはバカみたいに単純である
という二面性だった。初対面の人間には、それは伝わることはほとんどない。
バカみたいなコドモであるという面だけが伝わり、ナメられて見下されるだけであることのほうが多い。
だから彼は、付き合いのない他人に自分を見せることはほとんどなかった。
そしてそうしている間の彼の人生は、消化試合のような退屈なつまらない時間を作り出していたのかもしれない。

 聞くところによれば、人はそういう痛ましい苦悩を避けるためにこそ、キャラを演じるのだということである。
そのキャラは、自分がなりたいキャラを、自分で選んで演じるのではない。


 場が求め、彼や彼女に対して許したキャラ設定を、本人が望むと望まざるとにかかわらず、適切に演じ切ることを求められる。
その演技力の高さこそが今時の評価される社交力の大部分を占めている。
場が許していないキャラ設定を、自分で勝手に選んで演じようとすれば、空気を読めないということになる。
そういう空気の読めない人間は、場によって値踏みされ、キャラを強要されない、匿名的で顔の見えないネットの世界で自分で選んだ美化されたキャラを演じ続けることでしか生きられない。
オフ会で会ってみたら、一般的な感覚で評価するならヤバいほどキモいとしか受け止めようのない自己陶酔的な人間が
身の丈も分からない状態でなんだかアンバランスなことをやってしまう世界は現に電脳空間に存在している。


 その二つの世界を、”与えられた”キャラ設定を受け入れ場に適応する社交力の世界と、”与えられた”キャラ設定から退却
して自分を美化した思い込みの”自分で勝手になりきっているキャラ”を演じるネットの世界だとするのであれば、スペッキヲはそのどちらにも適応できない人間であった。
というのは彼は、そもそもキャラではなく、単純な設定に落とし込めるような分かりやすい人間性をもっていなかったからである。
無理やり落とし込もうとすれば、彼は、「凡人」ということになるだろうが、一方では彼は常軌を逸した勤勉な努力家でもあったし、IQがマイナスに振り切っているようなバカでもあった。
つまり何かしらの”重たい”人間であった。イタくて必死な、生きづらいタイプの真っ正直な人間であったのだ。

 そんな”重たい”生きづらさを抱えているように見られがちなスペッキヲではあったが、しかし、彼本人は
そういう生き方をむしろ望んでいた。
 というのは、キャラを演じるためにはスキルや情報を求められるが、「素」であることは何の苦労も求められなかったからだった。
彼は望んで、どこか無愛想な真顔を下げて、作り笑いや愛想笑いの世界から積極的に退却していったのだ。


 そういう彼の態度は当然放っておけば、周囲には摩擦を作ってしまう。彼自身はそれを理解していたから、なるべく目立たぬように
ひそやかに息をひそめていた。そんな様子が、はた目には”思い悩んで押し黙っている”と誤解されていたのかもしれない。


 彼を悩ませていたものは、彼自身の内発的なストレスというより、「素」であることを彼自身がそれなりに満喫しているということが理解されず、
”思い悩んで押し黙っている”と誤解されてしまうことに対してだったのかもしれない。
 大して楽しみもない人生を過ごす中でバカになるために浴びるように酒を飲む彼は、飲み会ではバカになって何かをさらけ出し、
自分なりにすっきりしているように見えるから、それを確認してまわりは安心した。ただ、それはあくまでも”思い悩んで押し黙っていた人間がそれをさらけ出してすっきりしているな”
と理解されるだけのことであったから、彼にとっては逆に誤解を増やす悩みの種でしかなかったのだろう。


 普通に考えれば「素」であることはキツい。だからこそ人はキャラを演じて人間関係を情報処理している。
他人をサッと理解し、自分がサッと理解されるためにこそキャラを演じているのだから。
 だがスペッキヲにとっては、キャラを演じることのほうがキツいのであり、真顔でいることのほうが楽なのだ。
彼はキャラを必要とするほど複雑な人間関係や人脈の中にははじめから居場所を求めようと思っていないのであり、素を見せあえる昔ながらの仲間たちと深くて長い腐れ縁を続けることのほうに
居心地や実りがあると思っていたのである。

 まあいずれにしても、スペッキヲは何かしら異様にヘンなところがある人間ではあったのだ。
 倉橋総一郎は、スペッキヲがそういう人間であるがゆえに、信頼していた。総一郎の目にももちろん、スペッキヲの素は捉えられてはいない。
ただ、ある種の古臭い人間、昭和の香りをまとった職人という”キャラ”には見えていたのだ。
 そしてそれは、実際、そうだったのかもしれない。人間は元々は、今ほど他人に対してデフォルメされたキャラを強要し合わず、
もう少し内面的な複雑性に対して真摯に時間をかけて取り組み合うことができた。人間関係が過剰なほど流動的になる前の社会では、
生まれた時にそばにいた人間たちと、死ぬまで人生を共に生きるのが当たり前の現実だったのだろう。
 クールで都会的な、仮面舞踏会のような洗練された社交術など、必要にならない、外部のない村社会の中で、プライバシーのない家族のような関係性を
生きていた人々もいたわけだった。
 スペッキヲがそういう人間かと言えば、まったく違うだろうが、何かしらそういう類の古びた野暮なストレートさがあることは確かだった。
そしてそれをいったん理解しさえすれば、彼という人間は極めて難しい人間であるというイメージは消え、分かりやすい田吾作であるということが見えてくるのだった。


 まあなんにせよ、彼自身が抱えている苦悩は、彼自身が悩むことだけではなく、単純に時間や関係性の蓄積の中で自然に収まっていく問題なのかもしれなかった。
なるほどこいつは、こういう人間だったのかという風に、誤解が次第に埋まっていくことの中、自然に少しずつ解消されていく問題にすぎないのかもしれなかった。

 が、いずれにしてもスペッキヲ自身は、それをそういう問題だと割り切って考えてはいなかったようだ。
彼自身は、まだ短いながらもその人生の中で、時間をかけた関係性が互いの内面的な誤解を埋めていくことはないとなんとなく感じていたからだろう。


 3,4年仕事を共にした諸先輩らとの相互信頼も、一定の距離感から先には進まなかったし、人の入れ替わりによって関係性も濃くも薄くもなっていった。
何よりも、時間の問題に過ぎないのであれば、自分の人生が始まる前から自分を理解しているはずの、遺伝情報まで共有している両親が自分を誤解なく理解できないはずはなかっただろう。
三つ子の魂百までもというときの、三つ子の自分を知っているという意味で本質的には理解されているにせよ、それでもやはりすべてを共有しあえないからこそあらゆる青少年たちは
反抗期を迎えたりするものなのだった。


 そういう意味では、人はそれほどまでに互いを知りたくはないのだし、知りたくないものは知りたくないのだ。
知りたくないので理解し合いたくもなく、ほどほどの距離感から先には、行きたい相手とだけ行けばいいという感じでしかない。


 如何に、深入りすることなくそつなくやっていけるかを、スペッキヲは追求している。そういう中で、互いの誤解が生まれないような洗練された生き方
というものを彼は模索している。誤解が生まれるような内面を一切開示しないことによってであった。
 そしてそのことが、普通に見れば、彼が心を開かないかたくなな人間であるかのように見えてしまう一因を成している。適当なキャラを演じる器用さが彼にないが故にであった。

 人が皆、本当の自分というものだけをさらけ出す社会には一つの縮図が存在をする。幼稚園や保育園の子供たちの社会がそうである。
その自然状態は、大人が見守ってコントロールしなければならない社会だ。
 人が本音をさらけ出すと、そこには慈しみや助け合いよりももっと身もふたもない戦いの世界が生まれてしまうということである。
教えられなければ、人はモラルある態度など取るようにはなっていない。


 人間というものは放っておけば、絶え間なく争いあう生き物なのかもしれない。当事者同士の暴力能力の競争によって争いを解決していたのでは、
憎しみの連鎖が終わらない。だから人間は社会を形成したのであった。それは、暴力能力を統治権力に預け、発生した問題を全員が合意したルールに従う統治権力の暴力という形で発現させ公平に解決
する社会であった。そのことを権力と呼ぶ。それは憎まれ役である。大人が叱ることによって問題を解決するかのように、裁判所や警察や軍隊が暴力を引き受けることによって、恨みをかわないフェアな解決というものを形成したのだ。


 だがそうした一段高みの暴力能力もまた、人間が運用するものにすぎないのだし、例えば国家間の外交問題のような場面になれば、その上の大上段の暴力装置は機能しえない。
歴史の理想とは裏腹に、社会そのものもまた、どこかしらある種の自然状態の様相を呈している。


 それはしかしどうでもいいことであった。スペッキヲは自分が素の自分でいようとすることに、もしかすると罪悪感を感じてはいないだろうか、ということを言いたかったのだ。
彼が子供のような態度をとろうとすること、それを肯定する態度。それは、周囲の人間関係を、どこかしら自然状態に近づけているのではないかということ。
そのことに彼は無自覚ではいられなかったからである。

 世の中には性同一性障害というものが存在するが、工藤怜に言わせればスペッキヲは「キャラ同一性障害」だそうである。
 怜には、スペッキヲは単なる自分のキャラをわきまえていない空気の読めないイタい奴にしか見えなかった。
自分自身を勘違いしている思い込みの激しい内向的な人間にしか見えなかった。
キャラを演じていないというよりも、単に自分をその他大勢から超越した何者かだと思い込んでいるナルシストだとしか思えなかった。
何か常に、場の人間関係から距離を取り、一段上の上から目線で自分を棚に上げた批評みたいな発言をする偉ぶった小物としか感じなかった。


 自分自身のことしか知らないということ、他人を知らないということ、知ろうともしていないということを彼は彼自身で自覚していないのだと感じたのだった。
怜からすれば、彼は素であるというよりも”自分だけが人間であり他人はデフォルメされたキャラ”であるメルヘンチックな狭い妄想の中に閉じこもっている内向型の人間にすぎなかったのだ。
 そんなスペッキヲに、怜はムカムカした感じを絶えず煽られていた。スペッキヲはスペッキヲで、自分が誤解されているのだと考えていた。
そしてこの二人は、気がついていないが実はかつて生き別れた姉弟であったりもした。

 新年度が始まり、大勢の新卒者達が入社してきて研修を受けていた。
 どこかしら先輩らよりももっと大人びて見えるようなその若者たち。だが、誰もがみな昔はそう見られていたものだった。
ホテルのバーを貸し切って行われたその懇親会は、会場がすし詰めすぎて満員電車の車内を思わせる様相を呈していた。


 スペッキヲは、正直なところ、新卒者たちに興味があったわけではなかった。
こういう場こそが、むしろ仕事なのだと考えていた。酔っぱらったら、誰よりも酔っぱらいらしい姿をさらけ出す。
気を使われずに生きるには、枠をはみ出さないスタイルこそが求められる。


 コミュニケーションと言っても、実際の中身は何かの愚痴なり陰口ばかりということが往々にしてある。
恐らくそういう話題は、一番、共有されやすい話題なのかもしれない。しかし、
そんな不平不満を一生懸命に垂れ流す姿は、みじめなものだとスペッキヲには思えた。
周り中が敵だと思って生きるのは、都合のいい言い訳なのかもしれない。そういう考え方では、苦しみが生まれる。
 周りを信頼すること、リスペクトし合うことが、コミュニケーションの目的であるべきだと彼は思っていた。
しかしそういう彼の考え方は、どことなく何か裏があるような、企みごとを含んでいるような態度にさせ、
周囲にうまく意図が伝わらない。


 彼はジャックダニエルを続けざまにあおり、先輩にくっついて新卒者の群れを襲った。
熱いような寒いような中年らしい熱弁をカマした。新卒者は熱心な目をして頷き、感銘を受けたような態度で握手を求めてきたが
そういう演技がうまい、新卒としての気に入られるスキルが高い優等生なのかもしれない。
いずれにしても、「君は優秀であるがゆえの悩みにぶち当たる、その時が来てもうろたえるな」とスペッキヲはドヤ顔で説教した。


 いよいよ場が混乱しはじめ、お偉い方の皆さんが狂気を放ち始め、若者たちは合コンの体制へと移行し始める。


 やれやれ、男と女の時間か、とスペッキヲは思った。
小便をし、帰ろうとすると先輩に捕まり、夜の街へとくっついていくことにした。

 夜の歓楽街を徘徊しながら(それはほとんど道に迷っているに等しく思われた)先輩から聞かされた話が色々あったようだが、
酔っていたせいかその話はほとんど思い出せない。ただ、先輩も、あるいはほかのメンバーも、みなリアルを楽しんでよろしくやっているのだなと
いう感じだけ残った。


 スペッキヲはどういうわけだかそういうものにまるで縁がなかった。もちろん、もう少し若いころは色々なチャレンジをし、
さまざまなものに飛び込んで熱くなってはいた。だが、それは初めから一つの目的の為に行われた営為でしかなかった。
”それはつまらない”ということを確認するために自分で体験しようとしただけでしかなかった。
 思い残すことがないように、未練ももたないように、身をもって”つまらない”ことを確認していく営為でしかなかった。


 そうやって彼を突き動かすものは欲望ではなくなっていった。
ただひたすら、知識欲だけが、あくなき知識欲だけがスペッキヲをデータの世界へと誘っていく。
そのほかのすべてがつまらない、それを彼はすでに割り切ってしまったのだ。
 そしてそれは彼にとっては正しいことだったのかもしれない。彼の備えた様々な特性が、彼を誘っている彼のための桃源郷。
それがデータの海原にだけ存在したのだ。


 倉橋総一郎の理論によれば、あらゆるものはデータと形式へと還元可能なのだとされる。
それが意味するのはデータの中の酒池肉林だろうか? そうではない。そこには構造が生み出す力学がある。
折り重なった美の階層、その相互関係、連鎖反応。シグナルがパースされ、やがて訪れる永遠のハイバネーション。
 アルコールに酔った頭は、すでに通信衛星と電波を送受信しはじめ、”彼の”ネットワークの深いトンネルを開いた。

 トンネルの中で、スペッキヲは声を聴いた。
その声は、どこかしら工藤怜に似ていて、高いような低いようなしかし押し殺したようなところのある強い声だった。
声は訴えていた。ダメなやり方を力技で軟着陸させつづけるぐらいなら、早く失敗して、そのやり方そのものを見直す場を設けることが大事だと訴えていた。
 何のことなのかスペッキヲは分からなかった。しかしその声を鳴らしているのは、自分自身の何かであることも確かだった。
確かに今の自分には、何かしらのいびつなメソッド(=方法論)がある。
 そしてそれは結局のところ、明らかにダメなやり方だと彼自身気づかないわけではなかった。
だが、彼には泥沼の中で磨き上げた、鍛え上げられた荒業の数々があった。その力技が、結局あらゆる不可能をなんとか潜り抜けさせてしまっていた。
生き残る見込みのない彼を、生きながらえさせる誰にも真似できない言葉にもならない独特の論理を超越した問題解決能力。
それについて彼は他人に説明することができない。
 自分のやり方は誰にも伝えられない。誰も真似できない。それは根本的には、彼にしか実践できない。彼すら言葉にできない直感の中に核を秘めたブラックボックスだ。
だから彼は、そのやり方を何度も捨てようとしてきた。
もっとオーセンティックで標準的なやり方を会得しようとしてきた。と同時に、自分のやり方もまた、オーソライズされたやり方に近づけようと試行錯誤を繰り返してきた。
 彼が他人のやり方を、理解するために、あるいは彼が他人に理解されるために、それは必要不可欠な努力だった。
そうすることによって彼は、入れ替え可能なパーツになってしまうかもしれない。つまり、誰にも真似できないやり方を捨てた、誰でも真似できる存在になってしまうかもしれない。
しかしそれはもう一段上のレベルで、自分ひとりでは到達できない偉大なゴールを目指す上では、どうしても必要な事でもあった。

 筱宮厳についての話をしよう。彼は、気難しい男だった。要するに、ありとあらゆるものについてダメだダメだと言っている男だったのだ。
何か口を開けば聞く前からその中身は決まっていた。何かを評論家気取りでダメ出しし始める。
 そうすることによって、彼はまるで何事かについて何かしら分かっている人間である自分に陶酔する。ところが彼はそうすることによって何もかも失っていった。
彼は何かしらのストレスを抱えているだけだったのであり、そのコーピング手法が何かを非難することしかなかった。
脳科学の知見によれば、脳内の情報処理には主語がない。何かに対する批判を脳はただ自分自身に対する批判と同じように処理する。
つまり筱宮は自分自身を絶え間なく虐待せざるを得ない。他人のように見える自分を、ノーガード状態で殴りつけ、自分で自分に拳をめり込ませ続けているようなものだった。


 彼が、ただ鏡に向かって孤独な戦いをしているだけであればそれはそれでいいのだろう。
自分自身のどうしようもなさを彼は他人の中にしか見いだせないということであれば、どうにもならない。それだけの人間でしかない。
その駄目さが実は自分のダメさであることを理解できるようにならないまま大人になれてしまうということが驚くべきことであったが、そんな人間は今では珍しくもない。
そういう姿は凡庸でしかなかった。


 スペッキヲにとって筱宮は、何のかかわりもない他人に過ぎなかったが、筱宮にとってはそうではなかったようだ。
筱宮の脳内では、スペッキヲは心の友かさもなくば宿命のライバルかなにかだったのだろうか。
スペッキヲは筱宮を相手にしなかった。風景かなにかのように主体を持たない存在のように思えた。なぜなら彼は何も生み出さない。
自らの意志を、他人をつかってしか表現していなかったからだ。
 だが一方で、その姿、原始的な姿には、確かにスペッキヲの中にもある根源的な未熟さがあることも気づいていた。
その未熟さは、逆にスペッキヲの中の未熟さでもあったからだ。


 筱宮は、3年前に死んだとされていた。そういう連絡を人づてに聞いたことがあった。だが、彼は記憶の中でずっとあの頃のまま生き続けている。
夢の中に何食わぬ顔で入り込み、また何かを批判し始める。そういう男がかつていた。
そして誰にも知られることなく、この世から綺麗に去っていった。
思い出の中に、生き続けている。彼を知るすべての人々が死ぬまでの間は。

 千葉県の20年がかりの都市再開発計画。1号市街地とされたエリアから、複数名の少女たちが姿を消した、と倉橋総一郎は言った。
拉致されたのか、単に家出しただけなのか。それははっきりしない。
忽然と姿を消し、連絡がとれない。ケータイはすべて圏外になったという。


「そこで、データベース探偵たる、君の出番だ」
「もっと詳しい情報がなければ、それだけでは何も調べられないよ」
 今日は気分じゃない、という態度でスペッキヲは椅子をくるりと回し、背中を向けた。
「どこからの依頼ですかね? 特殊犯捜査係?」
「それは明かせない。君は口が軽すぎる」


 捜査線上に上がってきたのは、どういうわけだか、数奇な運命を生きる見知らぬ他人ではなく、筱宮厳であった。
しかし筱宮は死んでいるとされる。死んでいる男によって、少女たちが誘拐された。


 筱宮厳とは一体、なんだったのだろう。
スペッキヲは記憶を掘り起こしてみた。しかしその素性はよく知らなかった。彼は明らかに挑戦してきている。
そしてスペッキヲが動き出すように仕向けているのだ。だが何のために。彼自身の、自己顕示欲の為に?


 最初は、そのようにしか思えなかった。無数のインシデントの中の比較的簡単なケーススタディの一つになるだけだろう。
スペッキヲは”姿の見えぬ依頼主”の超法規的な権限を借り、あらゆる組織のデータベースを抑え、それらをその場で連携させて必要なデータを探した。


 47名もの筱宮厳がいる。単に名前だけが同じなのではない。あらゆる個人情報が同一だ。
一体、何が起きているというのだろうか?

 城ケ崎ゆきが住んでいたとされるのは、千葉県にある北初富と呼ばれる街だった。あまりにもさびれ過ぎて、
田舎以上に不便な街だ。若者たちは東京で生活をし、街には寝に戻る。だがそもそも若者たちの姿も少ない。
あるのは、イオンだ。道幅は狭く、スーパーの店員は血色が悪く、みなどこか諦めをにじませた顔をしている。
古い住宅街があるが、庭先の樹木はやせ衰えて、フェンスは破れていた。


 人々はただこの街を通り過ぎていく。そこに居つく人間がいるとは思われていない、そんな街。
あの日、光が爆発をして、自分はどこか遠くへ来てしまったようだ、とゆきは思う。


 それは思い出の中に少し似ていながらも、見知らぬことばかりが起こる世界だ。
そしてあの日というのは、水谷きららの悪ふざけによって、見知らぬ若い男と5人、駅前の商店街の裏路地の物陰で淫行に耽った夜のことだった。


 この世界が、それまでの世界と違う、ということにゆきは気づいていた。
誰もが少しずつ、それまでとは違う。夢の中での彼らのように。


 誰かが現れ、この世界から助け出してくれるのをただ待っていた。きっとそんな人がいるはずだからと思っていた。
だがそれは今じゃない。ゆきは窓を開け、物干しざおに下げたハンガーにブラジャーをつるした。

 その時、唐突に”予感”があった。
 謎の小僧が、この1Fの部屋のベランダに干したブラジャーを盗みに来るという予感があったのだ。
ゆきは心配になり、コーヒーを入れながらもベランダを気にした。
一体、ブラジャーの何がそんなに興味をそそるのかわからない。それはただの、布切れなのだ。
テレビをつけると、バラエティ番組が放送されていた。
 自分はどうかしているのかもしれない。世の中には干したブラジャーが盗まれる気がして一日中ベランダを見張る人間なんかいないのだ。
食パンを切り分け、作っておいた卵焼きをレタスとベーコンで閉じ、電子レンジにいれる。


 その時、キーンという耳鳴りがした。
どこから音はするのだろう。周囲を見回すと、外のほうからかもしれなかった。カーテンを開ける。すると、
自転車を急発進する小僧が見えた。ブラジャーはある。しかし、パンティが消えていた。
 ちょっと待って、という声を発するのをためらった。パンティを盗まれるなんて、人に知られるのも恥ずかしい。そのままベランダを超えて追いかければよかったものを
ゆきは正面から靴を履いて追いかけた。


 どこにいったのだろう。ベランダの外は駐車場になっていて、ゴミ捨て場を回り込むか狭い通路を通って表通りのほうにでる道しかない。
先回りすると、自転車は倒れていた。どこかに隠れているのだろうか?
 そう思うと、急に不安になった。どうして私のパンティを盗んだん? と聞かれたら小僧はつらい気持ちになるのだろうか?
よくわからない。でも、だめなものは、だめなんだと思う。
自動販売機の裏から物音がした。ゆきはそこに小僧が隠れているのを見つけた。
出ておいでよ、どうしてそんなもの盗るん、とゆきは言った。小僧は顔を背けていた。服のすそをつかみ、外に引っ張り出した。
つかんでいたパンティは、自販機の裏のカビのようなものがこびりついて黒く汚れてしまっている。それはどうでもいい。また洗えばいい。
「こんなことしたら、だめでしょ?」とゆきはパンティを取り上げた。
 小僧は、目を伏せ、何も聞こえないような顔をしていた。ただ黙っていれば、こちらの怒りが収まって、帰れるのかもしれないという態度だ。
 どうしたらいいんだろう、どうすればこの子に伝わるんだろう。ゆきは心細い気持ちになった。
ただ、ここで知らない子を叱っていても、はた目にはヘンに見える。警察につれていくのも、大げさだ。ゆきは小僧の手を引いて、部屋に戻った。
そこで話をして、分かってもらおうと思った。

 なんなんだよこのお姉さん、しつこいな、という顔を小僧は浮かべていた。
「離せよ!痛い!」小僧はうめくように抵抗し、部屋の外の別の物件との間の通路で引っ張り合いになる。
 パンツとられたぐらいで、許してくれないなんてもしかしてお姉さん、僕に気があるのかな? と小僧は思った。
お部屋に連れ込まれて、コクられるんじゃないか!と小僧ははっとした。


「なに! どうしたの?」
 隣の部屋がガラッと空いた。水谷きららがそこに住んでいる。
「......ちょっとパンツ盗られちゃってて。」
「は?」
 きららは小僧とゆきを交互に見た。
「......で、その子が犯人ってワケ?」
 小僧は知らん顔をして、歌を歌い始めていた。
「ハハーン」
 きららの目が十字に光った。


「盗んだパンツは?」
 小僧は、泥だらけになったパンツを出した。
「なんで盗ったの?」
 小僧は自分が盗ったんじゃないという顔をしている。自分は何もしていないのに、
叱られて被害者だ、というような顔をしている。
「......もうしない?」
「やってない!」と小僧は言った。


 ちょっと、ときららはゆきに囁いた。本当にこの子が犯人なのか?
ちゃんと見たのか?


「見たわけじゃないけど、彼、急に逃げたし、その時パンツが消えてて、彼が持ってた」
「フーム」

 小僧はほどほどに賢く、自分は被害者だという風に自分に言い聞かせてそういう演技を貫こうという構えであった。
ゆきにもそれは分かっていたが、そんなことでなんとかなると思っている小僧がどこか心配だった。
このままで彼は、生きていけるだろうか。


「ねえゆき、とりあえずコイツの家を聞いて、親御さんに説明だけしなよ」ときららが言った。


 しばらく考えていたが、ゆきは首を振ってうつむいた。
それで彼が叱られるのか、それともそうでもないのか、それはよくわからない。そしてその両親が納得するのかどうかもよくわからない。
パンツを弁償しますといわれてお金を渡されて終わりになるだけなのかもしれない。
あるいは、うちの子はそんなことしないと言われて激怒されヒステリックに追い返されるだけなのかもしれない。


「......ねえどうすんの?」
 きららはうつむいている小僧とゆきとを見比べて、肩をすくめる。
「まあ入んなよ。とりあえずゆっくり考えよう。あんた時間大丈夫なんでしょ? スリッパ好きなの使ってね」
 小僧は羊のスリッパを履いた。
中は化粧品や衣類、ファッション雑誌などなどが散乱していた。片づけながら、何とか座れる場所を作り、クッションを並べる。
「......ポテチとコーラ、買ってくるね」
「あ、だったらイレブンのおいなりさんもお願い」

「ねえ、おいなりさんなかったよ。きなこドーナツになったけど、いい?」
「どれ? あっいいじゃん」
 ゆきが買い出しから戻ってみると、二人はゲームをしながら待っていた。3DSのスマブラだった。
「ねえ、こいつムカつくほどうまいんだけど、なんなん?」
 小僧は殺気立った眼差しで3DSに没頭していた。彼にとって、それは恐らくただの遊びではないのかもしれない。
「ちょっと変わってよ、ゆき!」
「えっ、だって私このゲームしたことないよ?」
「いいから」


 きららはカチッと音を立ててメンソールのタバコのフィルターを噛み、火をつけた。
案外本気でムカついているのかもしれない。


 ゆきはそもそもゲームをほとんど遊んだことがないので、キャラクターを動かすだけでもビクビクしていたのだが、
小僧は容赦なく攻撃を仕掛けていた。
「......(下手すぎてつまんねー)」
「ナニ?」
「雑魚すぎ」
「ちょっと貸しなよゆき、今度こそ絶対ボコボコにしとくからな」
 きららはタバコを加えながらゆきから3DSを奪い取った。


 きららがゲームを夢中でプレイしている姿を見たことはない。
それほどうまいのかどうかは知らない。だが、今度は二人とも黙り込んで、黙々と戦いを始めた。
先ほどまでとは違い、二人のキャラクター執念じみた動きで殴り合っては離れ殴り合っては離れを繰り返している。

 チ、という舌打ちやらギリギリした歯ぎしり、バンバンテーブルをたたく音などを発しながら
きららは戦いに負け続けた。
 勝ち続けて小僧は退屈しはじめ、適当な攻撃しかしてこなくなっていく。


「君、このゲーム得意なんだね」とゆきが話しかけてみたが、返事はない。
 そんなの当たり前だということなのだろう。でもあるいは得意だ得意でない、というような一般的な評価に
興味がなかったのかもしれない。”へたくそなゆき”にそれを判断する資格を与えていないだけなのかもしれない。
彼は、彼が認めたもっと上の何かだけが、自分を評価できると考えていたのかもしれない。あるいは、その部分については
小僧らしく単になにも考えていなかったのかもしれない。


「あっ、きなこドーナツおいし」
 ゆきは二人を観察するのにも飽き始めてドーナツを食べてみた。


 それにしても、あたしのパンツについては、どうなったのだろう。
「ねえあたしのパンツ」
「洗濯機の中。いらないなら捨てる」


 小僧は来週も部屋にくることになった。
きららはそれまで技を磨くらしい。


 その小僧こと佐藤祥平は、二人がよく行くスーパーの店長の息子で、両親が共働きのため
学校から帰るといつも一人でゲームをしていたらしい。パンツを盗った理由については、よくわからなかった。
彼は図書室の机の下にあったエッチな落書きについて細切れの短い話を打ち明けたが、その意味はよくわからなかった。
 ただ単に、彼にとってはパンツが何か秘密を握っているように思われたのかもしれない。
「パンツはただの布だよ。うんこついてる。盗っちゃダメだからね」
 と、きららが言った。

 この世界には、どこかしらおかしいところがある。


 そうスペッキヲは感じていた。47人もの同姓同名者がおり、千葉から少女達が忽然と消えた。
宇宙の法則の乱れでも起きているというのだろうか? と思い立ち、苦笑した。
 いずれにしても集められる情報は集めた。この情報によって、事件は解決に向かうだろうか?
それはよくわからなかった。


「”先方”に報告する。一旦帰宅してくれ、何かあればまた対応が必要になるだろうが」
 と総一郎は言った。


 翌朝の8時40分、いつものように唇を半開きにした美女とすれ違う。
スペッキヲは気になっていた。一体、何がそんなに気になるのだろう、まったくの他人でしかない。
だが急に気がついたのだった。


 ”自分はこの顔を見たことがある”


 そういう気がした。だがどこで目にしたのか記憶をどれだけ遡っても分からない。やはり知らない顏だ。
誰にも似ていないようで誰にでも似ている。そう思っていた。
だが、スペッキヲはふと突然、思い出した。


 知りもしない、その相手の事を急に思い出したのだ。
それは、LexicaというSNSで互いにフォローし合っている相手のプロフィール写真がなにげなく目に入った瞬間に思い出した。
相手のプロフィールや投稿写真が、どこかあの美女に似ていた。
その相手は、Ayakaという名前を使っていた。
いつフォローしたのか思い出してみた。かなり初期の頃、よくわからずフォローした相手の一人だ。
単にプロフィール写真を見てフォローし、しばらくブログやコメントを見ていた。


 その人物とはどういうわけだか生活領域がギリギリのところまで重なることがあった。
互いの職場の場所や、参加するイベントなどがタイミングを合わせて隣接したロケーションになる。


 そしてついにはどういうわけだか、互いの通勤経路が交差するようになっていたのだ。


 そのことについて、スペッキヲはいわゆる常識的な確率論を使って試算してみた。
天文学的な確率の低さだ。どうしてこんなことが起こるようになったのだろう。

 倉橋総一郎は、その時、職場で健康診断を受けていたのだった。
 健康診断の季節が来るということで、仕事のスケジュールは荒れ始めていた。終わった翌日の花見や飲み会の出席まで断ってしまうほど
総一郎はどことなくナイーブな一面を持つ男だったのだ。彼はむかしからそういうところがある男だった。
注射針が嫌い過ぎたのだ。彼が採血を恐れれば恐れるほど、彼の体は採血困難なカラダになっていくかのようだ。


 健康に悩みがあるということではなかった(彼はストイックすぎて元気がないことを除けば、それなりに健康的な身体だった)。
BMIの値は大抵22で体型は十数年変化していない。診断結果に異常があったこともない。


 会議室や外部向けのセミナールームに医師たちが集まり、従業員たちはあらかじめ連絡があった通り無地のTシャツ姿になって黙々と並ぶ。
尿検査のやり方は医療機関によって未だまちまちであるようだ。
 視力、聴力も特に異常はない(彼の視力は大抵1.0だが時々1.5になることがあった)。
そして採血となる。


 彼は恐れおののいた。
さまざまな光景がフラッシュバックしてくるのだった。
 彼の体は白すぎて、かつ静脈も細く、肌の色に溶け込んでまったく血管が見つからない。その為いつも採血はなんどもやり直しになる。
針をさしても血はでない。何度も何度も針を刺され、手の甲から採血するといわれたことまであった。
通常の場所以外からの採血は総一郎の体に鈍い痛みをもたらし、しかもそれは身体の深い部分から電撃の様に伝わるピュアなビリビリしたショックを伴う。


 が、今回は一発で採血は成功した。
彼は放心した。


 頭が真っ白になり、診察で何を質問されたのかも分からない。
ビルの外に出て、レントゲン車の前に並んだ時も、そうだった。


「おい」
 同僚に背中を押され、彼はハッと我に返った。
「レントゲン車がどこにいるのか分からずに敷地をぐるぐる回ってしまったよ」と彼は言った。


 総一郎は言う。
 いつも思うんだが、人は採血の瞬間に大地震が発生するかもしれないとは考えていないようだ。針が腕にささるその瞬間に巨大な震災が起き、
針は腕に突き刺さって貫通し先端が腕の反対側へ突き抜けてしまう。その状態で揺れ続ければ腕は縦横無尽に切り裂かれるかもしれない。
......そんな風には想像したことはないか? と彼はいった。
「ない」


 周囲は爆笑の渦に包まれた。
だが、その半日後に、確かに大地震が日本を襲ったことだけは事実であった。
そんな時間帯に注射を打たれている奴がいたとしたら、酔っぱらって点滴の針を打たれるアルコール中毒者ぐらいなのかもしれない。
だがあるいはもっと悲惨な、手術中の震災に遭遇している病院もあったかもしれない。
そういうことについて、考えるのはやめるべきだった。


 人間ですらフレーム問題に直面する者がいる。ラプラスの悪魔は、それを克服するために欲動のエンジンを備えている。
思考よりも優先される、思考の舵を握る欲動がプログラムされているのだ。

 その朝、目が覚めた時、スペッキヲは外がまだ暗いのを知った。腹痛を覚えて目が覚め、トイレに向かう。ひどい下痢の症状だった。久しぶりのことだった。これまでの不摂生が急に出たのかもしれない。トイレの中でまた謎の夢を見た。その内容はほとんど記憶に残らない。ただ、意味不明な議論を延々と繰り返している夢だったようだ。

 トイレを出て再びベッドに潜る。まだ朝はこない。しかしそこからは寝つくことはできなかった。頭が勝手に不可解な自問自答を繰り返している。Ayakaとは誰なのか。自分が彼女をフォローしたのは偶然だったのか。

 目覚まし時計のアラームがついにはなり始める。それを止め、PCを立ち上げてまずいコーヒーを飲んだ。タバコを吸いこむと少しだけ頭がハッキリしてくる。まずいコーヒーとタバコを下剤代わりに、再びトイレで下痢を出しきる。

 Lexicaで出会った人々というのは、結局は遠い世界で暮らすかかわりのない人間たちにすぎない。Ayakaをフォローしたのは恐らく10年ぐらい前のことだったようにさえ思える。書き込みや写真などを思い出すに、彼女は最初は学生であったが、その後イベントコンパニオンとして、そしてコスチューム系の飲食店のスタッフとして、やがてはレースクイーンとして活躍するようになっていった。そんな人間になっていくとは想像もつかなかった。Lexicaで出会った多くの人間が、そのようにそれぞれの道へ活躍の場を拓いていった。つまりは余計に遠い世界へと行ってしまうのだった。だが、どういうわけだかさまざまなタイミングで、スペッキヲとAyakaはギリギリのタイミングをすれ違うようにして隣接した場所で行動範囲を交差させてもいるのだ。

 そのことについて考えるとスペッキヲの頭はひどく痛む。遠い世界のようにみえるものは、実はすぐ隣でおきている日常風景であったということだ。自分の目が曇っているために、自分は目の前で起きていることが不思議な事だと感じる感性すら失い、それをパソコンのモニターの中に再発見するまで気づきもしなかったのだろうか。

 目が覚めない。まだ時間はあった。風呂を沸かし熱湯につかって血圧をコントロールする。一気に目を覚ましたかった。

 倉橋総一郎から新たなる連絡はない。したがって、今日は平常通りの業務内容になるだろう。必要最低限のことだけを済ませて、今日は適当にあがろうと思った。湯船を出て、髪をドライヤーで乾かし、身支度をする。まったくいつもと同じ朝のはずだった。

 街を行きかうハトたちを眺めながら駅へと向かう。この街のハトは何かがおかしいとスペッキヲは思う。群れがいれば必ず何匹か、黒く湿って汚れているハトがいる。飲食店が出す残飯の山を、のめりこむように貪ってきたハトが混じっていることに気がついていた。その目はハトとはこういうものだというスペッキヲのイメージを裏切るように、真っ赤な輪が黒目を囲んでいる。まるで血走ったように。いや、よく見ればそもそもハトとはもともとそういう目をした鳥なのだ。飼育用の黒目がちな小鳥とは全く違う種類の生き物なのだ。

 いつものように通勤定期で改札を抜け、いつもと同じように電車がその瞬間ホームに入ってくる。電車に乗り込み、空きを見つけて座ると、再び眠ることにした。電車の中で眠るとどうやっても体が凝るだろうが、それは妥協せざるを得ない問題だった。そして、今日の午前と午後の予定を頭の中でイメージしているとすぐに目的の駅にいる自分が目を覚ます。習慣によって身に着いたものだった。誰でもみなそうなっている。だから今日も同じであることを疑う余地はない。

 だが、二駅手前でスペッキヲは腹痛を感じて目を覚ました。社内は都心に向けていよいよ過密状態になっていた。電車は駅で止まる。だが、人がドッと降りる駅でない駅は、ドアのそばにいなければ降りられない。スペッキヲは先日、ウンコを漏らしながら雨の中を歩いたことを急に思い出した。今日に限ってなぜこんなに下痢が続くのか。焦りを感じれば体は何かを誤解し、いよいよ便をひりだそうと大腸を蠕動させる。平常心だ、平常心だ、と考えることもうまくやらなければ逆効果にもなる。深呼吸で呼吸を整え、姿勢を正し、尻以外から力を抜く。気持ちの焦りをなくさなければ、と思った。ちらと時計を見る。電車はいつもより3分遅れている。だが目的の駅には到着をした。誰もがこの駅で降りるために乗っていたかのように急いで電車を降りていく。なるべくゆっくりと立ち上がり、何食わぬ様子でおちついて出なければならない。

 その姿ははた目にはまるで出来の悪いテロリストのような動きにもみえたかもしれない。別のホームにあるトイレに向かう。だが、ホームをガラガラであるのに、大便用の個室には長蛇の列が並んでいた。軽いめまいを感じた。救護室は満床だといわれながら、大便用の部屋でゲロを吐いて妻に電話で助けを求めた男が、駅員に担ぎ出されていくところだった。会社に遅刻を連絡しようとした。だが、体調不良というものは、まさにこういうものだという状態にスペッキヲはあった。体調不良で午後から出ますと連絡した。そして順番がまわり、こらえつづけていた下痢をひりだした。それはまるでよく振られたコーラの瓶の中身のような勢いであふれ出した。それから数分、どうしていいのかわからない状態で意識をさまよった。次から次へと、救護の必要な人間がトイレを求めてやってきて、駅員に運ばれていくのだった。

 一旦、帰って体を休めたい、と思った。そして逆方向の電車に乗った。だがそちらもやはりすぐに満員電車になった。外の景色は不思議な輝きを放っているように見えた。いつもよりも明るくまぶしく、黄色かった。土曜日や日曜日に見る街の姿ではない。これこそが生きている街の姿なのだ。

 女子学生たちが釣り側につかまってノートを眺めている。その裏側は数式が書き込まれている。彼らの世界も、いつのまにか遠い世界になったように思えてくる。学校で学ぶことが社会で役に立つことはほとんどの場合ない。役に立つのは、目的をしらない活動に対しても協調性をもって耐えるその学生生活という規律訓練だけだったように思える。そのしつけがなっている行儀のいい人間とそうでない人間とでは、走れるレーンが異なってしまう。そのようなことを考えていた。頭はいよいよ混乱していった。下痢は収まりつつあったが、心はどこか遠い世界に抜けていってしまったのかもしれない。

 スポーティな服装の女子が、物憂げな顔でスマホをいじっていた。そのファッションはくたびれた色気があった。だが、足元に電子ジャーのようなものを持っていた。何に使うのだろうか? 部活で昼ご飯の準備にでもつかうのだろうか? マネージャーかなにかだろうか? そう思うと急に疲れ、また意識を失うように眠った。

 目が覚めると、隣に老婦人の気配があった。老婦人は、手で合図をおくって反対側で釣り側にゆられていた老父を空いている向かい側の席に座らせた。老父はアウトドア商品点で売っているようなジャケットとリュックを身に着けていてタブレットを使っていた。老婦人は何かの文庫本を読んでいる。やがて老父の隣の席が空き、老婦人はそちらにうつる。そして老父のタブレットのどこかを少し指さして、「ここだね」と言ってまた文庫本に目を落とす。二人は思い思いに別々の別世界に没頭していても背はよりそっている。そこには息苦しさも摩擦もない自然な関係がみえる。愛し合っているとか愛し合っていないとかそういうものではなく自然に連れ添って一緒に人生を歩んでいるのだなという感じを受けた。

 その老夫婦は電車を降りて行った。スペッキヲは自宅の最寄り駅まで戻った。

 小さな歩調で、ゆっくりとした歩調でトボトボと歩いている自分に気づいた。目的も用事も持たない者のそれを思わせる、迷いに満ちた足取りだった。行きかう中年女性がケータイ電話に向かって「セフレでもいたのかもね」と言いながらすれ違っていった。町並みはいつもとはまったく異なり、どこか遠近感を失って現実味のない遠い世界のように見えた。まるで、Ayakaの世界のようだ、と気づいた。景色がほとんど複雑な図形の重なり合いにしかみえなくなっている。

 桜の木の下を通った。

 スペッキヲは桜の花の塊を見上げる。まだ散り始める前の、桜だった。この通りに植えられているこの木が桜であるということに、人はこの季節だけ気がつく。桜はこの春にだけ輝きをもって注目され、そして散ってまた、ただの黒いみすぼらしいごつごつとした樹木へと帰る。その感覚は何かに似ていた。葬儀になり、みな悲しみをもって故人の死を悼んだ後、アルバムの中に故人の笑顔を発見したときの感覚のようなものに似ていた。

 つらく苦しいだけの世間を渡った波乱万丈の故人であったにせよ、アルバムの中に確かに、かつて笑顔で輝いた瞬間があったということを知ったときの感覚。それがその人の人生の桜なのであり、そしてまた、それがやがて必ず散ることの中の哀愁なのかもしれない。

 そして桜が散ったのを合図にして、公園は緑に覆われていくだろう。まかれた花びらの一つ一つが大地にしみ込み、緑のための養分になっていくだろう。

 部屋に戻り、またトイレに駆け込んだ。下痢の症状が再び襲ってきた。今日はこのまま休みをもらおうとスペッキヲは思った。

 近代哲学の祖として、あるいは線形代数の祖として知られるルネ・デカルトはかつて"cogito ergo sum(われ思う故に我在り)"と気づいた。それは、生々しい夢こそが現実であり、この現実のほうが幻でないとなぜ言い切れるのかという疑問から始まった彼の問いの帰結だった。

 彼の"cogito ergo sum"が三段論法を成していない事は、多くの哲学者が指摘をしている。彼の議論は、自己実在を証明したのではなく、夢に対比される彼の現実の実在を信じさせるにとどまったのかもしれない。文化人類学の世界では、異なる人間間どころか異なる地域の異なる人種、異なる時代間でも共通する人間の夢の構造、あるいは異なる地域異なる時代の異なる文化間における神話同士の不思議な類似性について議論がなされてきた。それは根本的には、人間の無意識には時代も人種も超えた共通の構造が存在す